2019年2月17日     顕現後第6主日(C年)

 

司祭 バルトロマイ 三浦恒久

「自己中心性という自覚症状のない病気」【エレミヤ書17:5〜10】

「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」(エレミヤ書17:9)

 ある先輩聖職が聖書を「神さまのカルテ」と言われたことを、今も繰り返し思い出すことがあります。それはわたし自身が得体の知れない病気にかかり、聖書によってその病気に気づかされるからです。その病気とは、自己中心性という自覚症状のない病気です。

 イエスが誕生して40日後に、その両親はイエスを連れてエルサレム神殿へ宮参りに出かけました。そのとき、メシア(救世主)を待望していたシメオンが幼子イエスと出会い、この方こそメシアであると確信し、神を賛美しました。ところが、シメオンは母マリアに不可解なことを告げました。

 「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。―あなた自身も剣で心を刺し貫かれます―多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」

 シメオンのこの言葉は、イエスの十字架上の死を予告し、その死によって「多くの人の心にある思いがあらわにされる」と述べています。では、「多くの人の心にある思い」とは何でしょうか。それが人間の心の奥に潜んでいる自己中心性です。

 自己中心性という病気は厄介な病気です。自覚症状がないからです。自分が病気だと自覚しない限り病気を治すことができません。

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 1951(昭和26)年に結核予防法という法律が制定されました。わたしが生まれる1年前です。結核患者、特に肺結核患者が増え、その対応に迫られていたのです。この法律に基づいて、予防措置が取られました。たとえば学校で、ツベリクリン反応という結核に感染しているかどうかを調べる集団検査がありました。陰性の場合はBCGが接種され、陽性の場合はレントゲン車が来て胸部の写真を取られました。

 このレントゲン車による写真撮影によって、わたしが肺結核であることがわかりました。中学2年生の時でした。精密検査の結果、左肺上部に十円玉ほどの空洞があるということで、即入院ということになりました。自覚症状がありませんでしたので、もしも集団検診がなかったならば、病状はもっと悪化していただろうと思います。それでも伝染病棟に2年半隔離され、療養生活を強いられました。現在では特効薬が開発され、患者数も激減し、結核予防法は廃止されています。

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 このように自覚症状のない病気は厄介です。ですから健康診断が必要になります。

 では、自己中心性という病気を診断する方法があるのでしょうか。イエスの十字架の場面を思い出してください。十字架の上に挙げられたイエスの周りには、民衆やユダヤ教の指導者やローマの兵士たちがいました。彼らは次々とイエスをあざ笑って言いました。

 「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」(ルカ23:35)

 「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」(ルカ23:37)

 では、イエスは自分を救ったでしょうか。そうではありませんでした。イエスは自分を救わなかったのです。イエスは自分を救わない神、自分を救えない神として十字架上で死なれたのです。イエスは自分を救うということをされなかったのです。

 この十字架の出来事こそが、わたしたちの心の中に潜んでいる自己中心性を暴くのです。イエスの十字架を鏡として自分自身を映し出した時、自分が自己中心性の虜になっているのが分かるのです。

 そして、イエスが自分を救わなかったというこの事実、イエスが自分を救わない神、自分を救えない神として十字架上で死なれたというこの事実にしっかりと目を向けることによって、わたしたち自身が、あるいは、わたしたちの社会が、がんじがらめにされている自己中心性から解放される道が開かれるのではないかと思うのです。

 自己中心性という自覚症状のない病気を、決して見逃してはなりません。