執事 アンデレ 松山健作
二つの人間像【ルカによる福音書4:21−32】
顕現後第4主日のみ言葉は、イエスさまが異邦の地でさまざまな恵みを表したのに対し、故郷の人々には受け入れられずに、山の崖へと追いやられるという描写になっています。不思議なのは、崖へと追い詰められたところで、イエスさまは人々の間を通り抜けて、どこかへ立ち去ってしまうという描写でしょうか。
この箇所には、二つの人間像が表れているのではないかと思います。一つは、イエスさまのさまざまな働きに期待したイエスさまと同郷の人々です。これらの人々は、当然イエスさまが同郷であるために、他郷で表したそれ以上の恵みを表すだろうと期待していました。
彼らは、その最初イエスさまの恵み深い言葉を聞いて、それを語る者が自分たちの知っているヨセフの子であることに気づき、驚きます。その驚きもつかの間、イエスさまは同郷の人々に向かって恵みを施すことができないと伝えます。この言葉に同郷ということで特別に恵みを受けられると考えた人々は憤慨し、イエスさまを崖へと追いやったのです。
彼らの姿は、自分たちの利益を求めて内へ内へと向かい、神が遣わしたイエスさまに心を開くことができなかったという人間像を描いています。イエスさまの指摘は、神の言葉を受け入れられない人々は、そこに注がれる愛と恵みに気づくことができないことを言い表しているようです。
そしてイエスさまは続けて、預言者の働きは同郷の人々ではなく、他郷の人々に向かうことを明言します。つまりは、神の救いは、身内にではなく、異邦人へと、外へ外へと広がっていくということです。身内意識に固執した同郷の人々は、イエスさまの言葉で自分たちの欲求を満たすことができませんでした。
これらの描写において、鍵となる言葉が22節と32節の「驚く」という言葉です。日本語では同じ意味合いに取れますが、前者の「驚く」という前後の文脈には、イエスさまを同郷の英雄として誇る人間的な興味が色濃く現れています。彼らは、イエスさまと同郷であるということで、それを利用して自分たちがあたかも特権集団であろうとした姿が現れています。一方、後者の「驚く」は、カファルナウムの人々がイエスさまの教えによって、驚いたという内容です。このニュアンスは、イエスさまの教えに圧倒されたということであり、イエスさまの権威ある言葉に魅了された驚きを示しています。
これは同郷の人々の内向きな姿勢とは異なり、イエスさまの言葉を受け入れ、イエスさまの言葉によって満たされ、イエスさまの教えを受け入れた人々を描いています。つまりは、今までの価値に固執せず、心を開いて転換することのできた人々の姿と、自分たちの考えに固執し続けた人々の姿という二つの人間像を描写しているのではないでしょうか。
イエスさまは、同郷の人にも他郷の人にも愛を持って、言葉を伝えたはずです。しかしながら、聞く耳を持たず、自らの価値にとどまる人々に対して、その愛は、「すーっと」間を通り抜けて、どこかへ立ち去ってしまうものとなるのです。その一方でイエスさまの愛を受け入れる者には、今までの価値は、外へ外へと打ち出され、新たに入り込む神の愛に満たされて生きることができるということを描写しているように思います。
私たちは、いつまでも古い自らにとどまることなく、神の言葉、つまりは神の愛とともに新しい世界へと踏みだすことができますようにとお祈りしています。
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