2019年1月27日     顕現後第3主日(C年)

 

司祭 ヨハネ 黒田 裕

よく分からないけれど【ルカ4:14〜21】

 数年前のこの時期、大学院で指導教授をしてくださった先生が定年退官されるため最終講義が行われるということで、その講義を聴きに行ってきました。内容は、20世紀における「神の国」解釈の研究史を概観し若干のまとめを付すものでした。
 実を言うとわたしは、この講義から直近の主日の説教で「使える」話しを期待していました。しかし、専門性があまりにも高かったため、それも無理のようでした。
 ただ、結論部分について自分の印象を含めて少々印象に残ったことがあります。先生の結論としては、イエスさまは日常的な言葉づかいを通して超越的真理を語られるが、この超越性を忘れると、「神の国」を語りながら人間の理想を語っていることになる。神と人との間には、やはり溝があって、それは正当なことなのだ、ということでした。そこから受け取ったわたしの大雑把な印象は、「よく分からなくてもいいんだ」ということです。
 今日の福音書も、「実現した」を理解するのがとても難しく感じます。とはいえ、今言えるのは、他ならぬイエスさまが仰っているんだからそうとしか言いようがない、ということです。何が語られたか以上に、誰が語ったか、ということが重要なのです。
 イエスさまが「実現した」と言われたとき、時はすでに、新しい段階へと移りました。この新たな段階では、「実現したらいいね」とか「いつか成るだろう」とか、「実現できるように頑張ろう」というのでは、いかにも事柄にそぐわない言い方になってしまいます。神中心の時代へと移ったのに、人間の願望や理想が並びたてられるのは、あまりにも似つかわしくないからです。
 そして、わが身を振り返ってみるとき、その「時」に似つかわしい顔をしているだろうか、と思うのです。TPOに合わせてわたしたちは服やお化粧品を選びます。同様に、キリストが来られた、そのTPOに合ったありようがあるのではないでしょうか。
 キリストが来られたのに、わたしたちは、うつむいていないでしょうか。イエスさまがこの世に来られ、「実現した」と言ってくださいました。それは、わたしたちが持っている、多分に自己中心的な願望を粉砕しつつ、わたしたちの思いをはるかに越えて、わたしたちにとって良きものを与えてくださる神さまの宣言です。
 たとえ、よく分らないとしても、それに応えてわたしたちは、それにふさわしく顔をあげ、ともに感謝と賛美の道へと歩みを進めたいと思うのです。