司祭 ヨハネ 古賀久幸
祝宴の裏方
イエスが「水がめに水をいっぱい入れなさい」といわれる、召使いたちは、かめのふちまで水を満たした。【ヨハネによる福音書2章7節】
わたしの恩師は身を持って牧会を教えてくださった。主日の早朝、まず教会のまわりを掃除する。壁をべっとりと汚している昨晩の宴のなごりをホースの水で洗い流さねば
ならないことがあった。朝の爽やかな気分も吹っ飛ぶ場面だ。すると恩師は気風(きっぷ)の良い江戸弁で「牧師の仕事はなあ、人が戻したやつをこうやって水で流しているようなもんじゃねえか。そうすりゃ、こいつが昨日何食ってたかわかるからな。ハッハッハ!」と笑いとばしながら手際よく箒を操られた。日曜日の司祭の仕事に玄関前のゲロ掃除があるとは驚いたが恩師は何事もなかったかのように掃除道具を片づけ、時間になると司祭の装いで福音を宣言され、荘厳にミサを執り行われた。もちろん、石鹸で丁寧に手を洗っておられた(と思う)。そんな恩師の姿をじっと見て教会の門をくぐり洗礼の恵みに導かれたご近所の方はひとりふたりではない。
ガリラヤ地方のカナ村あげての結婚式にイエス様が参列されたときのできごと。祝宴の酒が無くなるという大ピンチが訪れた。古今東西、酔っ払いは意地汚い性分と決まっている。このままだと末代までの家の恥として語り継がれるに違いない。酒席の雰囲気が変わりつつあることに気がついた母マリア様は事態の打開をイエス様にお願いされた。最初はつれない返事のイエス様だが、やおら宴席を離れて下働きの召使のところに行くと、大きなみずがめ6つに水を汲めと命じられた。ええっ!足りないのは水ではなくてお酒でしょ。近所を回って拝借する手もあるでしょう!と、まわりは思ったかもしれない。しかし、召使たちはイエス様のご命令に従い、黙々と大がめ六つに水を満たし料理頭のところに持っていった。味見をしたシェフはその芳醇な香りに驚嘆し、「ふつう、良い酒は最初に振舞うだけなのに、後から更に素晴らしい酒を出すなんて。」と花婿を賞賛するではないか。なんと、それが薫り高いワインに変わっていたのだ。花婿は?と思ったかもしれないが、祝いの宴は更に盛り上がるのだった。神の国の喜びを表現するとき婚礼の宴が引き合いに出される。カナの婚宴の席(神の国の祝いの宴)に「わたしと一緒に喜んでくれ。」と香り高いワインの杯を高々と掲げるイエス様の声がこだましたに違いない。祝いの席の壁の向こう。この喜びが誰の奇跡によってもたらされたか知っている召使いたちがいた。そして、イエス様のご命令に従って目の前のことをこなした自分たちの仕事がすこしでも役に立っていたのだと、彼らもまた喜びのおすそ分けにあずかったのだ。
祈り、頑張ってもなかなか昔のような教勢を取り戻すことは難しい。地方・地域によって教会や牧師、信徒の宣教、働きは本当にさまざまで教会の発展とどうつながるのか
見えないこともある。しかし、教会はイエス様の肢体(からだ)。聖餐式は神の国の祝宴。教会にかかわることはすべてイエス様のお仕事。徒労と思われても、遠回りだと思われても汗を流すことを厭ってはならないとあらためてカナの婚礼の奇跡に教えられる年の始めだ。
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