司祭 ヤコブ 岩田光正
現在の荒れ野に「神の怒り」を聴く
ヨハネは荒れ野で悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。・・・』」。ついにメシアが来られる。自分たちの歩みを整えなさい。ヨハネは、このメッセージを伝えるため神さまから送られました。では、「主の道を整える」とは、一体どのようなことなのでしょうか。
さて、今では、完全に抜けてしまった様に感じますが、私が子供の頃、世の中で怖いものと言えば、「地震、雷、火事、親父」と耳にしたものです。父親は怒ると子供にとってとても怖いもの、それが「親父」という存在でした。ただ、この場合当然ですが、「親父」が怒るのは、子供のためを思う愛情の故です。
降臨節第三主日の福音を聴いて思うことがあります。それは、洗礼者ヨハネからの警告の言葉です。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」。「親父」同様、「神の怒り」も私たちには、久しく抜け落ちているのではないでしょうか?「神の怒り」が迫っていると聴いても実感が湧きません、神の赦しと愛を聴くことばかりに慣れてしまい、神の裁きや怒りなど存在しないかのようです。
ところで、私たちの現実を見渡してみた時、どうでしょう。今の時代、荒れ野でヨハネの叫んだ昔と変わっているでしょうか?自分達は、神さまの恵みから離れることはないという傲慢な思いや神さまの戒めから軽んじた営みの数々、富の独占、貧しいやもめや孤児の現実。徴税人や兵士たちの不正・・・人間は本質的には何も変わっていないのではないでしょうか?
「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。ヨハネの、荒れ野でのメッセージは、多くの人々の魂を揺さぶりました。続々と悔い改めの洗礼を受けます。というのも、人々は、「神の怒り」を聴いたからです。当時、荒れ野にやってきた人々は、自分達こそは、「神の怒り」など他人事と高をくくっていました。しかし、彼の言葉によって自分たちの根っこにある罪が剥き出しにされ、何も良い実など結べていないことに心底、気づかされたのです。そして、悔い改め、怖い存在に立ち戻ろうとしたのです。
最後、「神の怒り」を厳しく行われるとヨハネの預言したメシアはついに来られました。しかし、このお方は、私たち人の知恵では全く理解のできない仕方で「神の怒り」をお示しになられたのでした。このお方は、私たちを斧で切り倒していこうとはされませんでした。むしろ、裁きを自らが担われ、引き受けられることで、「神の怒り」を行われたのです。そのことで神さまは私たち人と真剣に関わり続け、自らの責任と栄光で持って私たちと向き合い、大きな愛情を示して下さったのです。
降臨節の今、私たちは、ヨハネの声を通じ、親父のごとく怖い存在でありながら、深く大きな愛情に魂を揺さぶられ、主をお迎えする道を整えて頂きたいものです。
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