司祭 エレナ 古本みさ
「すべてをささげる」【マルコ12:38−44】
イエスさまは、神殿に置かれていた賽銭箱の前に、静かにたたずんでおられました。ガリラヤでの宣教を終え、エルサレムに来られてから毎日、神殿で群衆に教えておられたイエスさま、もしかすると休憩時間だったのかもしれません。群衆に向かって福音を語りながらも、刻一刻と迫りくるご自身の受難の重みに、人間としていっぱいいっぱいの状況であったであろうことは、わたしたちにも想像がつきます。おひとり座って、人々が献金を入れる様子をじっと見ておられたとき、主の目にひとりの女性の姿がとまります。一人の貧しいやもめです。やもめは当時、人々の施しによって生きるという貧しい生活を余儀なくされていました。
女性は、献金箱に彼女がもっていたすべて、銅貨二枚を入れました。すなわちそれは、彼女の生涯、生活、人生、「生きていることすべて」を神に献げたことを意味しました。イエスさまがご覧になった、そのときのやもめの表情がどのようであったかはわかりません。でも、確かなのは、ご自分の命を十字架の死へと差し出そうとしておられるイエスさまが、神の前に自分の生きていることすべてをささげようとしたこの一人の女性を受けとめられたという事実です。
なぜこんなことができるのでしょうか。貧しい彼女は、神の愛を知っていたのだと思います。そして、神さまが彼女をいつも見ていてくださる、必ず守ってくださるという確信を持っていたのでしょう。不思議なことに、この神の愛は、自分の貧しさ、弱さ、はかなさを認める者にしか気づくことができません。暗闇の中にしか星の光は見えないように。神の愛への確信があるからこそ、神さまにすべてを委ね、自分を犠牲にし、持っているものすべてを神さまにささげることができたのです。
さて、自由気ままに生きている今の時代のわたしたち。あなたは神さまに何をささげますか。
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