執事 アンデレ 江渡由直
私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるか。
【マルコによる福音書 第10章35節−45節】
この福音書の直前の32節−34節でイエス様は3度目の受難(エルサレムでの十字架刑)を予告されています。そして、弟子のヤコブとヨハネはイエス様が栄光をお受けになる時に、「あなたの右と左に座らせて下さい。」と願う今日の箇所に続きます。弟子たちも「他の人よりも上になりたい、偉くなりたい」という思いから離れることは、私たちと同様に難しいことでした。そして、人は苦しい道を耐えるために傍らに栄光(ご褒美)が欲しいと願うものであることにもうなずいてしまいます。
しかし、イエス様は「私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるか。」と彼らに尋ねられます。これは思いがけない問いかけで、二人ははっと何かに気づきました。それは一転する気づきではなく、何を飲もうとしているのか、飲むものの中身が何かを考えさせられる機会となりました。
苦しみと死の杯・洗礼、苦しい死を引きずっていかれるイエス様から「この杯と洗礼をお前たちは受けることができるか?」と問われ、この世的な富や権力者としての栄光をイエス様に見ていた二人は覚悟をしなおさなければならなかったはずです。
そして、「できます!」と何かをする決意が彼らにあらためてできました。それにイエス様は答えて、「あなた方はそれを受けることになる」と言われます。二つのイエス様の道を一緒に通らなければならない弟子たちは、イエス様が本当にそうなる受難の予告の意味にやっと気付き、ただ事ではないと思ったはずです。
そんな弟子たちは受難予告を受けてもイエス様のそば近くにいたい、その栄光が欲しい。彼らはそのような純真な心を育てることにより、その心により濁った心の方が清められていったのです。そして弟子たちは教会にとどまり、イエス様の栄光を求め、迫害の中の教会を守り、殉教を受け入れました。
そして、「出来ます、します。」と答えたヤコブは本当に「この杯・洗礼をお前たちは受けることができるか」の通りになったと伝えられています。(使徒言行録12:1)。殉教したヤコブは、イエス様の受難と栄光を受け、それに満たされました。彼の栄光の求め方はずれていましたが、その道は備えられていたのです。
イエス様は善い、悪いを区別されます。しかし分類されるのではなく、一人ひとりを愛し、大切にして導き、支え、変えてくださいます。
どうぞ日曜日の教会で、祝福の杯の前に進み、神様の愛に深く思いをめぐらしてください。
主に感謝
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