2018年10月7日     聖霊降臨後第20主日(B年)

 

司祭 マタイ 出口 創

子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。ヘブライ人への手紙2:14,15

「死の恐怖」の正体

新聞か何かの本で、自分が死ぬことに対して具体的に何が恐ろしいか、というアンケート結果を見て妙に納得したことがあります。圧倒的多数意見は次の3点でした。@「遺す人たち(家族や友人など)の今後の不安」、A「絶命するまでの苦痛への恐怖」、B「未知なる死後の世界への不安と恐怖」。一般論ですがこれらが混然としたものが「死の恐怖」の正体なのかと思います。

イエスが十字架の死と復活、昇天と聖霊降臨という一連の神さまの業を通して、死の恐怖に縛られて悪魔の奴隷になっていた者たちを解放なさったのは、@とBを滅ぼしたという意味なのでしょう。ご復活、昇天、聖霊降臨を通して「教会」が遺されました。@は解消です。また「絶命=終わり、滅亡」でないことも同時に示されました。Bも解消です。残る「死の恐怖」の正体は、実はAだけなのです。イエスもAの恐怖を述べています。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)と。

とはいえ、実際に「死の恐怖」に直面すれば「怖いものは怖い」です。Aだけでなく、滅ぼされたはずの@とBも襲い掛かって来るでしょう。それを悪いとは言いません。ただ「死の恐怖」さえも、キリスト・イエスによって既に主の御心の支配下にあることだけは、知って信じていたいのです。