執事 ルカ 柳原健之
「受け入れる」【マルコ9:30〜37】
教会の信徒のある夫婦に子どもが生まれました。とても可愛らしい子で、今のところ人見知りもせず、皆に笑顔を見せています。当教会では「平和の挨拶」の際に、皆が円になってグルグルと回りながら一人一人と握手を交わしながら挨拶をするのですが、その赤ちゃんを抱いたお母さんのところで小さな渋滞が起こります。しかし、誰も文句は言いません。むしろ皆が赤ちゃんの顔をしっかりと見た上でその子にも「主の平和」と言っています。見ていてとても嬉しくなる光景です。
今週の聖書箇所でイエスは、十二人の弟子たちの真中に子どもを立たせ、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」と言われています。今の時代とは違い、当時子どもは人格のある者としては認められていない存在であり、社会的には地位の低い者でありました。ここでイエスは子どもを自分と等しい者として迎え入れられておられます。ここにはイエスの愛が表されています。福音書を読んでいますと、イエスが病人や悪霊に取りつかれた人を癒し、徴税人や罪人と食事をされるシーンが多々あります。イエスはそのような苦しむ人や社会的に身分の低い人を受け入れ、友となられて、共に歩まれています。
さて、先ほどのイエスの言葉には続きがあります。「わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」。イエスを受け入れる者は、イエスをお遣わしになった方、つまりは神をも受け入れるとされています。三段論法的には、子どもを受け入れることは神を受け入れることになります。十二人の弟子たちは驚いたことでしょう。子ども一人を受け入れることが神を受け入れることになるなんて。
ここでは子どもが取り上げられていますが、おそらくそれだけに留まらず、様々な身分にある人を受け入れることが求められています。現代で言えば「マイノリティー」と呼ばれる人々がそうかもしれません。イエスは社会的身分の低い人を受け入れ、共に歩まれています。そして神はすべての人を愛しておられます。教会においては、子どもを受けいれることができています。しかし、それ以外の人達を私たちは受け入れることが出来るでしょうか。加えてイエスはその人達に「仕えなさい」とも言われています。私たちもイエスの道に倣い、神が愛された人々を受け入れ、仕えることが出来ますように。そして「主の平和」とあいさつを交わすことができますように。
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