司祭 エッサイ 矢萩新一
「十字架のイエスさまに従う道」【マルコ8:27〜38】
イエスさまの時代にも様々な常識や価値観が存在しました。ユダヤの常識では、目上の人を敬うことは当たり前、また、障がいや病気は先祖や本人の罪の結果、因果応報だと考えられていました。そして、救い主=メシアは、自分たちを苦しみから解放し、導いてくれるすごい人だと誰もが信じてやみませんでした。しかし、そんな常識でイエスさまを救い主だと信じて語るペトロに対して、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」と、イエスさまからの予想外の答えが返ってきます。自分たちを救ってくれるはずの人が、十字架で殺される??? 自分たちの都合のいいようにメシア像を創り上げ、人間の思いを優先させることは、サタンの仕業だとまでイエスさまは言われます。弟子たちは、そんな弱いイエスさまなんて認めることができず、愛に支えられた弱さの中にこそイエスさまの力が発揮されるということが理解できないでいました。
本当に救い主を理解するためには、「人は弱さにおいて強い」、「愛が無ければすべて空しい」という価値観の逆転が求められます。イエスさまは、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救う」と言われます。そして、「私に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と、本当の救いに与る方法を示されます。「自分を捨てる」とは、自らの力や暴力に頼らないこと、「自分の十字架を背負う」とは、自分の罪や弱さという人にあまり見せたくない部分を認めてさらけ出すということではないでしょうか。また、イエスさまの「言葉を恥じる」ということは、自らの都合や利己心のために、イエスさまの福音をねじ曲げて、現実の世界に順応しようとすることではないでしょうか。
私たちが信じる救い主は、国家の最高権力によって排斥されて殺された方です。世の中の常識からすればイエスさまは敗北者ですが、神さまはこの敗北のイエスさまを三日目に復活させ、私たちに希望と勇気を与えてくださいます。弱さの中にこそ福音は語られ、虐げられた方だからこそ人の苦しみに寄り添えるのだというメッセージです。十字架の敗北が、復活の勝利へという逆転です。
私たちが持っているそれぞれの世代の常識や価値観を見つめ直すヒントは、イエスさまの十字架です。イエスさまは決して自分のためだけに生きようとされませんでしたし、権力者よりも弱い立場にある人に寄り添われました。そして私たちは、敗北の象徴である十字架のイエスさまをメシアとして信じているということを思い起こしたいと思います。私たちは、人に見せたくない弱い部分をたくさん持っているにも関わらず強がって生きている救われるべき存在でありますし、それゆえにイエスさまに従いたいと切に願って祈りをささげています。
様々な価値観や情報が入り交じる現代社会の中で、何が本当に大切なのかを見極められる視点、様々な弱さを受け入れられる心の広さを持ちたいと願います。厳しさとやさしさ、敗北の勝利という価値観を、イエスさまの言葉によって常に刺激されながら、自分の十字架を背負い、命を差し出せる生き方を選びとっていければ素敵だと思います。
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