司祭 マーク シュタール
アブラハム、ヤコブ、モーゼは皆、砂漠の民でした。私達はこれら砂漠の民をとおして、神様を知りました。砂漠は厳しい環境です。また、その自然環境はときに劇的な変化を遂げます。ひたすら厳しい高温と乾燥が続いたかと思えば、突然、雨が降り花が咲き乱れ、緑豊かな地になります。砂漠の民が時に厳しく、時に慈愛に満ちた姿として、神様を崇めたのはある意味納得がいきます。この両面性をもつ神様は、唯一の神として姿を現し、全ての民にとっての神様となったのです。今日の三つのみ言葉を読むと、真理の神がどのように謎めいた存在から、肉となってこの世に現れ、私たちのかたわらに寄り添う存在となったかが分かります。
申命記(4:1〜9)では、モーゼはイスラエルの民に告げます。厳しい環境の人にある民にとって力強いメッセージを伝えたかったのです。それは、神様の力は彼らが思う以上に強いということでした。モーゼは同じメッセージを3回伝えましたが、毎回、少しずつ違いました。5節「見よ、わたしがわたしたちの神、主から命じられたとおり、あなたたちに掟と法を教えたのは、あなたたちがこれから入って行って得る土地でそれを行うためである。」内容は厳しいものです。神様に従えば生きる。神様に従わないと死ぬ、悲壮感すら感じます。やがて、砂漠の民が落ち着き、社会を築くようになると、神様の受け止め方もしだいに変化していきます。謎の多い神様はより具体性をもち、いわば、社会的な神様になりました。それでも、人間の社会はまだまだ自然災害などの危険に多く晒されていました。一方、エフェソの信徒への手紙(6:10〜20)でパウロは、自然災害などの危険ではなく、社会的な危険性について忠告します。12節「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」だから、神様から与えられた具体的な道具(神の武具)が必要となるのです。14章「真理を帯びとして腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としてしなさい。」16章「信仰を盾として取りなさい。救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。」帯び、胸当、履物、盾、兜、剣、すべては神秘ではなく、具体的、社会的なものなので、そのような意味で、神様は社会的な神様になったのです。
しかし、この社会的な神様にも限界がありました。疑いのある者、信ずることのできない者にもはっきりわかるように、神様は社会的な方法に限ることなく、ご自分の力を示されました。その神様の新しい方法とは、人間の姿をとって、弱い者の只中に現れ人々を癒すことでした。それもさりげなく、ひっそりと、しかし力強くされました。それは、マルコによる福音書(7:1〜8,14〜15,21〜23)で読むことができます。神様はイエスとなってあらわれ、言い換えれば、モーゼが示した抽象的な神様が具体的になったのです。以前はぼんやりとした存在が血や肉を伴った姿になったのです。謎めいた神様が、ぐっと身近になりました。
砂漠の民が必要とした遠い存在の神様は人間社会を通して、より社会的な神様となりました。神様は今日もその両面性を保ちつつ、時と場所に応じて、み姿を現されます。神様の無限の力がわたしたちと共にあります。それはご自身の力を誇示するためではなく、愛の力が無限でゆるぎないことを示しています。
わたしたちの心を開いてください。み国も力も栄光も永遠に主のものです。
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