2018年8月26日     聖霊降臨後第14主日(B年)

 

司祭 ヨシュア 大藪義之

「あなたがたも離れていきたいか」

「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」……このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。(ヨハネによる福音書6:60、66)

 イエスの周りには12弟子の他に多くの弟子さんがいたようだ。あちこちの村や町に行き宣教されていた中で、きっと一時、「これはすばらしい教えだ!」と心が燃えたり、「この人といれば喰いっぱぐれがない」などの下心からイエスに従った人がたくさんいたに違いない。
 しかし、イエスが話す内容に失望し、時折、「自分は十字架にかかって死んで、三日目によみがえる」などと言い出すものだから、「もうやってられん! ついて行けん!」と離脱していく者がけっこうたくさんいたのではないだろうか。

 私の神学校在学中に辞めていった人は少なくない。知っている限りで5人はいる。誰かに「お前は牧師になるんだ」と強制されてきた人。ちょっと初めから的がずれていた人。牧師にでもなれば生活が安定するかな、と思っていた人、など。いずれの方も授業や共同の生活が合わなくてお辞めになっていった。
 また、聖書にあるように途中でドロップアウトしていった者も少なくない。按手の時に誓約を立てながらも何かに我慢できず、躓いてイエスのもとを去り奉仕の職を捨てていく。

 「でもしか先生」という言葉がある。
 〜 でもしか先生(でもしかせんせい)とは、日本各地において学校の教師が不足していた第二次大戦終結から高度経済成長期(おおむね1950年代から1970年代)に教師の採用枠が急増し、教師の志願者のほとんどが容易に就職できた時代に、他にやりたい仕事がないから「先生でもやろう」あるいは特別な技能がないから「先生にしかなれない」などといった消極的な動機から教師の職に就いた、無気力で不活発な教師に対する蔑称である。文部科学省中央教育審議会の会議等においても用いられている 〜 とある。(ウィキペディア)  ※太字は著者
 「でもしか牧師」がいるとは思いたくないが、牧師の仕事とは「しもべ(奴隷)」の道を歩むこと。ある意味、人生最後の選択肢だと思っている。ただ「神と人とに仕えること」を忘れてしまって、「牧師になればあがめられる」とか「権威がある」とか「まぁ牧師を辞めたらこの仕事をすればいいや(もちろん自らの職業をもって奉仕職にある司祭はこの限りではない)」とか、大きな思い間違いをしている方もおられないではない。先生、先生と呼ばれるうちにどんどんと思いあがり、自分が神であるかのようにふるまってしまう危険がいつも伴っている。

 「あなたがたも離れていきたいか」 この問いはいつも私たち奉仕職に就くものに問いかけられているが、そんな気持ちに歯止めをかけてくれる言葉がある。「汝、死に至るまで主に忠実なれ」 司祭按手の折、当時の教区を管理していただいた木川田一郎主教が聖書に記してくださった言葉。あれから28年。一時は死の淵にまで行ったがまだまだお役目はあるらしい。死に至るまで、離れずにがんばりたいと願っている。ただこれも「主のお許しがあれば」ですけどね。
 最後に、聖職だけでなく、信徒にも同じ問いかけがあることを付け足しておきます。