2018年8月19日     聖霊降臨後第13主日(B年)

 

司祭 セシリア 大岡左代子

「まことの食べ物、まことの飲み物」

 8月5日の主日からわたしたちはヨハネ福音書6章を読み進めています。今日の主日はその3回目にあたりますが、話の中心は「永遠の命に至る食べ物」「いのちのパン」です。このお話の前には、5千人に食べ物を与えるいわゆる「五つのパンと二匹の魚」の奇跡物語が記されています。「食べ物」が共通するキーワードです。
 特に、今日の聖書の『はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。』というみ言葉からは、教会共同体が大切にしている聖餐式を想像します。ヨハネ福音書には、共観福音書のように聖餐制定の言葉がない、と言われますが、わたしたちはヨハネ福音書の6章を読むと「聖餐」を十分に想像することができます。けれども、もしわたしがキリスト者でなかったら、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は・・」と言われるとギョッとするかもしれません。共同体の外から見れば「ギョッとされるようなこと」を大切にしているわたしたちは、その意味を十分に理解しているのだろうか?とふと思うことがあります。
 「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」。「まこと」と訳されている言葉は、元々は「隠れていない」「事実ありのままの」「真の」という意味があり、ここでは「本物の」「真実の」という意味が強くなります。「イエスの肉、イエスの血」とはイエスさまの物理的な肉や血を指すのではなく、「イエスさまの生き様」「イエスさまの生」そのものです。その「イエスさまの生」をわたしたちがすべて受け入れて、自分の中にイエスさまをお迎えすること、それが聖餐の大切な意味です。受け入れてお迎えする、それは「信じること」でもあります。そして、わたしたちがイエスさまに倣って生きることを思い起こさせていただく瞬間でもあるのです。そのために、わたしたちは毎週その体と血をいただきます。体と血をいただくことは「見て、信じる」ことと同じ意味をもつのです。「キリスト者なら当たり前のことじゃないか」と言われるかもしれません。けれども、本当にわたしたちが心と体でイエスさまを受け入れ、信じているのか?時々自分自身に問うてみたいと思うのです。
 今日の福音書に先立つ「5千人の供食」の奇跡物語では、イエスさまご自身が群衆に食べ物を配っておられます。そのことはイエスさまご自身がわたしたちのあらゆる「飢え」を養ってくださることをも示しているのです。健康な体つくりには混ぜ物や化学調味料の入っていない「本物」をいただくことが大切だと言われます。これからも「まことの食べ物、まことの飲み物」であるイエスさまを求め続ける者でありたいと思います。