司祭 サムエル 奥 晋一郎
「命のパンであるイエスさまをいただく」【ヨハネ6:24−35】
私自身、食べることが大好きです。いつでも、楽しく食事ができればいいのですが、残念ながらストレスを感じたときに、ストレス発散としてやけ食いをしてしまう時があります。そんなことをしすぎると体を壊し、病気になってしまう危険性があるので、最近は食べ過ぎないように気をつけています。本日の福音書の箇所でイエスさまは群集に「わたしは命のパンである」と言われました。この言葉を通して、イエスさまは目先の食べ物としてのパン、目先の利益、目先の幸福よりも大切なものがあることを伝えています。
群集はイエスさまを探しに、ガリラヤ湖北部にある町カファルナウムにやってきました。そして湖の向こう岸にいるイエスさまを見つけ声をかけます。それに対して、イエスさま群衆に「あなたがたがわたしを探しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」といいます。これは男性だけで5千人、女性、子供を含めると1万人ほどの人々にイエスさまが5つのパンと2匹の魚を用いて、感謝の祈りを唱え、すべての人々に分け与えたことを示しています。このことをイエスさまは神様がすべての人々を救う方であることを示すしるしとして行いました。しかし、群衆はこの出来事をイエスさまが行った意図、神さまの救いとしてのしるしとしてではなく、単に空腹を満たすためであったと理解していました。そこで、イエスさまは群集に、朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならない永遠の命にいたる食べ物のために働きなさい、これこそ人の子、すなわちイエスさまがあなたがたに与える食べ物であると言われます。その後、群集はイエスさまに、「神様の業を行うために何をすればよいのか」を聞きます。それに対して、イエスさまは「神様がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と言われます。これは神様がお遣わしになった方、すなわちイエスさまを信じることが大切であることを伝えています。それでも群集はイエスさまの言っていることが理解できません。さらに彼らは、神様がモーセに対して、イスラエルの民に荒れ野でマンナを与えたことが書かれていることをイエスさまに紹介しています。それに対して、イエスさまは彼らに、イスラエルの民が荒れ野でマンナを与えられた出来事は、モーセが与えたのではなく、父、すなわち神様が与えたのであることを伝えます。さらにイエスさまは神様のパンは天から降ってきて世に与えられると告げます。それに対して、群集は「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」とイエスさまに言います。イエスさまは彼らに、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることはない」と告げました。
これらの出来事は単なる昔話に終わるものではありません。この出来事は現在生きるわたしたちにも言われていることです。わたしたちはどうでしょうか。神様がお遣わしになったイエスさまを日々、どんな時も信じているでしょうか。目先のパン、目先の利益、目先の幸福のみに目がいってしまっている時がないでしょうか。私自身、残念ながら、そのような状況に陥ってしまっているということを否定することはできません。しかし、そうであったとしてもイエスさまはわたしたちを見捨てたりはしません。イエスさまはわたしたちと共にいてくださることを示すために、「わたしは命のパン」であると言われました。このパン、それは聖餐式で聖別されたパンです。この聖別されたパンとしてイエスさまはわたしたちと共にいてくださいます。この聖別されたパン、イエスさまの体をいただくことによって、私たちは神様および神様から遣わされた独り子であるイエスさまによって、日々生かされていることを覚え、感謝することができ、心と体が豊かになって過ごすことができるのだと思います。
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