司祭 ヨハネ 黒田 裕
からし種ほどの【エゼ31:1-6、10-14、Uコリ5:1-10、マコ4:26-34】
使徒書(Uコリ5:1-10)に「幕屋」「建物」が出てきたからか、「建屋」という語が浮かんできました。東日本大震災のとき水素爆発によって吹き飛んだ原子炉を覆う建物です。当時の報道でカタカナ語の多いなか、この言葉だけやけに前近代的に思えました。実際、建屋とは、言わば原子炉を覆うただのコンクリートの箱。ここに、物凄い進歩を果たしたかにみえて実は「臭いものにフタ」をし、その威容を誇ってきた戦後の日本社会を重ねてしまいます。勿論わたし自身も、そのフタの上にあぐらをかいてきた一人なのですが…。さて、フタならぬ壮大な機構を誇る王が旧約に登場しています。エジプト王ファラオです。神さまは驕り高ぶる彼とその軍勢を裁くと言います(エゼ31:12、14)。このエジプトにわたしたちの姿を重ねざるをえません。わたしたちは裁かれ滅ぶほかないのでしょうか。
ところで、イエスさまは神の国のたとえを語っておられます。国は国でもファラオの国やわたしたちの国とは全く異なります。それらの巨大な富や武力に比し神の国はからし種のよう。あまりにささやかです。しかし、この種は成長してどんな野菜よりも大きくなるといいます。この国の中身は詳らかではありませんが、「葉の陰」(マコ4:32)にその重要な特質が隠されています。当時、灼熱の陽光にさらされることが死を意味するとすれば、木陰は“生”を意味しただろうからです。さらに葉陰の鳥の巣は、ただ神に頼り自由のうちに生きる神の共同体を思わせます。
それをよすがに旧約に戻るならば、どうでしょうか。エゼ31:13は微かな希望にも見えてきます。それは強い力と驕り高ぶりに覆われ、絶望が支配するかのような世界にあって、ごくごく小さいつぶのような希望です。それがからし種ではないでしょうか。わたしたちは使徒書が言うように、たしかに「この地上の幕屋にあって苦しみもだえ」「重荷を負ってうめいて」(Uコリ5:2,4)いるかもしれません。しかし、主のもとに住むことを希望としてもち、その保証として霊が与えられます。その希望は、からし種ほどの小ささかもしれません。しかし、それは神さまによって莫大な成長を遂げていきます。そして、その保証としての霊の働きは、わたしたちが聖餐を祝い囲むことにおいて目にみえるものとなっています。そのことを心にとめて、今日も皆でともに主に感謝と賛美をささげたいと思います。
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