2018年6月10日     聖霊降臨後第3主日(B年)

 

司祭 ヨハネ 古賀久幸

「新しい家族への道を」【マルコによる福音書3章20−35】

 市井の男として大工をしていたイエス様は時が満ちたことを知り、神様の業を始められた。病の人を癒し、慰めの言葉を語る。大勢の人が治癒を求めてイエス様のもとに押しかけ、イエス様も弟子も食事さえままならない。その力のすごさに驚嘆する人々がいる一方で「気が違った男」「悪霊の頭」と言う中傷が流される。一族の男たちは身内の恥を取り押さえようと、母と弟妹は心配してイエス様の様子を見にやってくる。神様のみ心と家族や血のつながりの間で起きる摩擦をとおしてイエス様は大切なことを教えられる。
 「問題は家族から起こる」とは「家族という病」(下重暁子 幻冬舎)で提起された問題だ。親子の確執、相続を巡って兄弟が争うことは珍しくもない。虐待や若者の犯罪の陰には世代をまたぐ家族の愛憎の歴史があり、親の介護に疲れた人が自ら命を絶つ。息子の借金を不憫に思う親心は振り込め詐欺に付け込まれる。人は誰かに寄り添ってしか生きていけない。親兄弟姉妹という血を分けたつながりの中には無条件の愛があるかもしれない。しかし、血のつながりは外に対しては排他的であり、内に向かっては目に見えない暗黙の掟が家族を縛り付ける。「人が独りでいるのは良くない。」(創世記2:18)と神様は人間の孤独を心配されたが、孤独を補うべき家族の中にいても一層孤独に陥ることもある。家族のありかたは人間にとって永遠のテーマなのである。
 イエス様は言われる「わたしの母、兄弟とはだれか」。その一言は家族、身内という概念を血のつながりから解放する。イエス様は父なる神とのご関係から始まる愛のつながりの中にわたしたちを招いておられるのだ。イエス様の兄弟、姉妹そして母になることがわたしたちの目的であり未来に開かれている。血のつながりがなくてもイエス様を要とした家族の一員になることができる。そして、血のつながりがある親子や兄弟の関係を改めてイエス様の光でもういちど照らしてみよう。いずれにせよ、新しい絆は「神のみ心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、母なのだ」。私たちが信仰の道を歩くのは所与の血のつながりを超えて新しい家族をつくるためなのだ。神の家族になる道を未来に向かって歩き続けよう。ずっと向こうで、神様が手招いてくださっている。