2018年6月3日     聖霊降臨後第2主日(B年)

 

司祭 バルナバ 小林 聡

苦難の中で、神様からの命を生きるために【コリントの信徒への手紙二4:5〜12】

わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。こうして、わたしたちの内には死が働き、あなたがたの内には命が働いていることになります。

 

 キリスト教の伝道者であるパウロという人は様々な迫害を受け、苦しみ、死を予感するほどでした。1:8「アジア州で被った苦難、すなわち耐えられない程ひどく圧迫され、生きる望みさえ失い、死の宣告を受けた思いをした」。7:5「マケドニア州にやって来たとき、身にまったく安らぎがなく、外には戦い、内には恐れと、ことごとに苦しんでいた」。
 そのパウロはコリントの信徒への手紙の中で赤裸々に自らの置かれた状況を語っています。苦難、耐えられないほどの圧迫、失望、不安、恐れ、これでもかと言わんばかりの抑圧状況です。しかしパウロは4:8で「私達は四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と語ります。
 パウロは自らの受けている苦難の状況、そしてその意味を語ることを通して、パウロ自らの使徒としての使命をコリントの教会の人々に訴えるのでした。それは打ち倒されても滅ぼされない生き方、土の器の中に確かに納められている神の命を信じ生きる生き方でした。

 パウロは自らの使命に生きる時、そこで受ける苦難は苦難だけでは終わらないと語ります。その使命とはイエス・キリストを宣べ伝えることであり、そのことによって受ける苦難は苦難だけでは終わらないと言うのです。
 パウロは語ります。「私たちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」。その宣べ伝える生き方は次の言葉としてあらわされています。
 「神は私達の心のうちに神の栄光を悟る光を与えてくださいました。」
 パウロはその光が土の器に納められていると語っています。土の器と光との対比が語られています。そして土の器だからこそ、光が輝き出るのだと。その光を覆い隠してはいけません。私達の利己心や欲望によって光を隠してしまうのではなく、むしろ私達はその本来の姿である土の器に帰らなくてはならない、そのようにパウロは生き方をもって私たちに示しているのです。
 何も飾らない土の器であるからこそ、その中に入れられた宝、すなわち神の光は大いに輝きを放つのです。私達の肉体、限りある命も又神さまの栄光が現われるための土の器なのです。
 土の器は脆く、弱いかもしれません。しかし、その中に確かにある神様の光、神さまの命を思う時に、むしろ自分ではなくその神様からの宝をこそ信じ誇ることが出来れば。苦難は、神さまの命へと私たちを導いてくださるのかもしれません。
 確かにその宝が私たちの中に納められている。しばし、自らを振り返り、その宝を思い、土の器に帰っていきたいと思います。