2018年5月20日      聖霊降臨日(B年)

 

司祭 パウロ 北山和民

そののち、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。…」(ヨエル書3章1−2)

 本日から教会の暦は「聖霊」を頂戴して、私たちが証していく期節に移ります。礼拝を大切にすることには変わりはありませんが、礼拝や説教によって「学ぶこと」から、「行うこと」へすなわち「新しい自分を発見し、現場に出かけて分かち合う」といった実践を心がけることに強調点が移るのです。
 冒頭のヨエル書の言葉の通り、イエスさまという「聖霊」を夢に見て歌い、自分の尊厳を追及(礼拝・対話)し続けることこそ、本当の(解放された自由な)自分であると言えるのではないでしょうか。
 自分や人間関係をわかったような言葉で、思考停止、自己完結に陥っているこの国の現在の「空気」こそが聖霊を最もわかりにくくしていると思います。「わからない苦しい道を求め歩き出すことは即ち道」なのでしょう。宮沢賢治は「農民芸術概論要綱」で「詩人は苦痛をも享楽する。永久の未完成、これ完成である」と言います。私には、イエスの道と詩歌を紡ぐ多くの人の魂とを重ねているように感じます。つまり、詩人が詩を生み出すように、聖職者が修行するように、「霊性を求め続ける」生き方こそ「人が人として価値あるものになること」。別のところ(童話「学者アラムハラドが見た着物」)で賢治が言う「魚が泳がずにおられないように、鳥が飛ばずにおれないように、人がしないではおれないこと」なのでしょう。聖霊の交わりは人間理解を深めるのです。
 福音に聞く主イエスさまの遺言、最後の意思とは、イエスを他者性(自己発見への道)として愛する、即ち「業を行う」こと。その行いとは祈りや人間関係に愛を持つこと。愛を持つとは、人間関係を仕え合う関係へと「開いて」いく、(自己満足にひきこもるのではなく)勇気をもって「出かけて」いくことなのです。「聖霊の交わり」とはこの「開き(エファタ)」のことかもしれません。
 あなたも詩人のように詩や歌を生み出す(開く)のです。わたしもつつましい説教者のように夢を分かち合う(開く)のです。鳥が風を受けて飛ばずにおれないように。