2018年4月1日      復活日(B年)

 

司祭 エレナ 古本みさ

「ガリラヤで会おう」【マルコ16:1−8】

 わたしは、マルコによる福音書の終わり方が好きだ。
    「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。
    そして、だれにも言わなかった。恐ろしかったからである。」
 これほどまでに、リアルにイエスの復活を伝える描写はあるだろうか。大好きだった主が殺された後、安息日が終わるのを待ったあくる日の早朝、いっときも早くご遺体に油を塗って差し上げたいと走って墓まで行った女性たち。しかし、彼女たちがそこで目にしたのは、空っぽの墓と、その状況を伝えた不思議な白い衣を着た若者であった。
 「主がおられない」。パニックである。女性たちは急に目の前が遮られ、耳はまるで水の中に潜ったかのように音は聞こえても、中身がわからない状態に陥る。小さな頭の中をぐるぐる巡るのは、「主がおられない」。ただそれだけ。
 わたしたちの人生で、この「主がおられない」パニックに陥ること、幾度あることだろう。病気、貧困、事件、事故、災害、戦争、愛する人の死、裏切り、仕事上の失敗、いじめ…。けれども、この福音書の結末は教えてくれる。絶望のどん底に陥った人々の心の中に、どれほどの時間を要しようとも、やがて、それまで意味をなさなかった声が明瞭に聞こえ始め、そこに一筋の光が射すことを。
 その声は言うのだ。「ガリラヤへ行きなさい。主はそこにおられる」と。ガリラヤ、それは主イエスが宣教を始めた地、湖で漁をしていた弟子たちが、突然「わたしについてきなさい」と声をかけられた場所。そこから弟子たちは網を捨て、すべてを捨てて主に従った。主イエスの教えを聞き、主イエスの奇跡を見、神の愛というものを初めて知った。
 「ガリラヤで会おう!」主は言われる、今の苦しい世を生きるわたしたち一人ひとりに。どうやら、この受け身ではなく、積極性を促すやり方が、わたしは好きなのだ。

 どうか、今つらく悲しい思いをしている人は、お近くの教会へ行っていただきたい。
 復活の主はあなたを待っておられる。