2018年2月18日      大斎節第1主日(B年)

 

司祭 ヨハネ 荒木太一

「力は捨てた」

 「雲の中にわたしの虹を置く」創世記9:13

 ノアの洪水の原因は神の怒りではなく、人間の尽きない悪だ。人が悪に満ちるのを神が「後悔し心を痛められた」(6:5)そこで力に訴えて悪を一掃し、人間と被造世界を再創造されたのだ。
 英語のレインボー(虹)の「ボー」は「弓」を意味するヘブライ語が語源だ。虹と弓はその曲がった形が似ているからだ。だから「わたしの虹」を置くとは「わたしの弓を置く」こと。
 罪人が悔い改めないとき、神の弓は下の人間に向かって張られ、稲妻の矢が放たれる。(詩7:13−14) しかし創世記9章の弓は上を向き、しかも弦(つる)は張られていない。これは神が武器を捨てた姿。弓を天の雲に掛け、全ての力を捨て、人間と被造物に平和を誓う姿だ。
 掛けられた弓は、十字架に掛けられた力なき救い主を想起させる。神は自ら武器を捨て、力を捨て、人間の悪どい心の結果を自ら進んで引き受けられた。人々の代わりに自分が神の弓矢に貫かれた。そうして悪どい心と共に死に、復活によって人間を再び新しく創造なさった。
 洗礼とは、この再創造に与るため洪水だ。私たちは洗礼の洪水で死に、イエスさまと一体になって力を捨て、虹の下で新しい人に再創造される。虹は十字架の主と再創造の命のしるしだ。弓を捨てた非暴力による、義への旅のしるしだ。