2018年1月28日      顕現後第4主日(B年)

 

司祭 マーク シュタール

 神様の御心は今も昔もミステリーに満ちています。2000年前の人も今の人も神様の目的と自分の期待とのずれに悩み、理解に苦しんできました。しかし、私たち神様に創られた人間は、この長い神様との出会いの中で、神様の目的が少しずつ人間の間に現れる、成就するという出来事を発見することがあります。
 今日の聖書のみ言葉を見てみましょう。旧約聖書の申命記(18:15−20)では、モーセがユダヤ人に自分が預言者であるということを初めて説き明かしました。かつて、イスラエルのリーダーは族長でした。それは世襲制で、もしその地位を継ぐ息子がいなかったら、たいてい一番強い人が新しいリーダーになりました。モーセは、これからはそのように選ぶことはないと言うのです。神様が直接リーダーを選び、選ばれた人は神様の権威を話したり、人々を導いたりするというのです。しかし、ここで人々はまだ納得できませんでした。モーセはユダヤ人をエジプトから解放した神様の使者でしたが、 ユダヤ人たちはまだ将来誰が自分たちのリーダーになるか分からなかったので、不安を感じていました。その不安に応えて、モーセは神様が預言者をみんなのもとに送ると言っていることを伝えます。その最初の預言者がモーセでした。これからは人間が選ぶのではなく、神様が新しいリーダー、預言者を決定する。これは、神様の御心と人間の期待との「ずれ」の例えです。
 コリントの信徒への手紙一(8:1b−13)でも、同じように「ずれ」について書かれています。ある特権階級がいました。その人々は、多くの知恵を持ち、神殿に行く時に市民の捧げ物の肉を食べる権利がありました。でも、次第にこの人々は自分たちの権力に間違ったプライドを持ち始め、そのプライドに対して、パウロは「知識は人を高ぶらせるが愛は作り上げる」といさめました。パウロの考えは、肉を食べる権利があるのは悪いことではないが、弱い人々が、権力者達が捧げ物の肉を食べるのを見て、W偉いグループは神様により近いWと信じてしまう。そして、弱い人々は「私たちも食べたい」と思い、自分たちも「捧げ物の肉を食べたら神様の特別なものになれる」と思ってしまう。そして、間違った解釈により、神様や主イエス・キリストを信じなくなってしまうというのです。結果的に、偉いグループの一人一人の罪だけではなく、兄弟姉妹の罪も招いてしまうということです。人間は知識を高めたいという期待をもって行動するけれども、神様の目的は違います。神様は愛が一番大事であると説きます。ここにも「ずれ」が見られます。
 最後に、今日の福音書(マルコ1:21−28)でイエスが洗礼の後、宣教活動に入る場面が出てきます。イエスは2週間前から弟子を選び、そしてガリラヤに行きました。宣教活動の始まりはいつ、どこだったのでしょうか。マルコの説明では、安息日の会堂でした。つまり、最初、イエスはユダヤ人として、イスラエルの宗教を滅ぼすために来たのではなく、イエスはイスラエルの宗教の充実のために来たのです。そして、カファルナウムの会堂でイエスは宣教の大事な三つのテーマを示しました:教え、奇跡、癒しです。それから、イエスはこの三つを人間の救いのために使います。しかし、イエスのやり方は人間の期待とは全然違いました。会堂の中の人々はすぐにイエスが神様の権威ある人だと分かります。イエスは律法学者ではなく権威ある者として人々は認めたのです。それは、汚れた霊がイエスの命令に従って、男から出て行ったのを見たからです。その場面をもう一度想像してみましょう。教会でいつもと同じ司祭ではなく、突然見知らぬ人が礼拝担当している場面を想像してください。この人は神学校に行ったことが一切ないのに、聖書を司祭たち以上に詳しく知っています。そして、神様の目的が何であるか一人一人にはっきり示してくれます。すると、突然、後ろから誰かが「かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ!」と言います。皆さんは、悪魔の声に違いないと思い、怖くなるでしょう。でも見知らぬ説教者は冷静に力強く「だまれ!この人から出て行け!」と言うと汚れた霊がその人に痙攣を起こせます。その場面に出会ったら、皆さんもガリラヤの会堂の人々と同じ考えになると思います:信じられない、でもなぜなのか知りたい、怪しい、怖い、いろいろな感情が湧き上がってくることでしょう。
 エレミア書では、モーセがこれからは、預言者は人間が選ぶのではなく、神様が選ばれると宣言します。そして、パウロは、人間は知識を高めたいという欲求があるけれども、神様の目的は違う。知識ではなく、愛こそが一番大事だと諭します。そして、福音書では、汚れた霊はイエスが聖なる神の子であることを認め、イエスの命令に従って帰っていったという出来事が書かれています。これら三つのみ言葉は、神様と私たちとの思いには時に「ずれ」があるけれども、神様は常に私たちに語りかけ、救い主に出会うように導いてくださっていることを示しています。私たちは、是非そのことを信じ、自らが作ってしまった「ずれ」に気づき、神様の御心に耳を傾ける者になりたいものです。