司祭 ヨシュア 大藪義之
「ガリラヤ湖畔 四人の若者失踪事件」(♪火曜サスペンス劇場のテーマ♪)
【マルコによる福音書1:14−20】
この聖書の箇所を読む度に、懐かしい思い出がよみがえる。今から20年以上前になるが管区の「訓練計画委員会」が開催したセミナーの聖書研究のシーンである。かなり昔のことでもあり記憶は正確ではないが、おおよそ次のようであったと思う。
この聖書の箇所をどのように表現すればいいのだろう? あるグループが標記のような表題を掲げて、ワイドショーのキャスターと現地リポーターとのやりとりで、主にその出来事とヨハネとヤコブの父親ゼベダイと母親にインタビューするというものであった。
キャスターがニュースを読み上げるように概要を話し、現地リポーターを呼び出す。「ガリラヤ湖におられる〜〜さん。現地から伝えてください」「はい。こちらガリラヤ湖畔です。こちらに息子さんお二人が失踪したお父さんのゼベダイさんに来てもらっています。お父さん今のご心境は?」「なぜ息子たちが急に網の手入れをやめてイエスとかいう人について行ったのか理由が分からない。それに跡継ぎがいなくなってこれからどうしていけばいいのだ!」「お母さんはいかがですか?」(聖書にはお母さんなど出てこないのですが)「もう本当にやさしい子たちだったのに・・・本当にイエスという人は・・・(泣く)」
リポーター「イエスという人物は、最初にシモンさん、アンデレさんにも『人間をとる漁師にしよう』と声を掛け彼らもついて行ったようです。いったい何があったのでしょうか。現地からのリポートでした」キャスター「いったい何が起こったのでしょうねぇ」という問いかけに、スタジオにいるコメンテーター(役の人)が当時の背景を説明し見解を話す、というものだった。(どこかの主教さんもこの中におられたような?)
参加者はみんな楽しくその発表を見て、さらにその発表から感じたものを話し合ったが、文字からだけでは感じ得ないこの出来事の周辺にある様々な感情について話し合ったように記憶する。聖書には「イエスが宣教の初めに、シモン、アンデレ、ゼベダイの子ヨハネとヤコブをお呼びになり、彼らはすぐに従った」とだけしか書かれていないが、四人が生きていたその周辺の人たちにはそのことがどのように映り、どんな思いを抱いたのだろうか?というところにまで想いを馳せることができたように思う。
イエスの想い。従った人の想い。残されてしまった人の想い。それを目撃していた人たちの想い・・・。様々な視点でこの物語を読み、聞く時に聖書の物語が立体的になり、もしそれが今自分の家族に起こったとしたならば、という現実の問題と重なる時にはじめて、聖書の文字、言葉、物語が活き活きとしたものとなってくるのではないだろうか?
あの時のセミナーの目的は「教会の礼拝や活動のファシリテーターとしての信徒の育成」にあったように思うが、そこに参加した人から多くの聖職者が出たことはスタッフとして参加していた私にはとても不思議な神さまのみ業のように思える。
「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」 時を超えて今も復活されたイエスはどこかで誰かに声を掛け続けておられるのかもしれない。
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