2018年1月14日      顕現後第2主日(B年)

 

司祭 セシリア 大岡左代子

「来て、見なさい」

 ヨハネ福音書に記されている「弟子の召し出し」のお話は、マタイ、マルコ、ルカの共観福音書にある「漁師を弟子にする」という話とは様子が違います。今日の福音書では、フィリポとナタナエルが弟子になる様子が記されていますが、その直前にはシモン・ペトロの兄弟アンデレともう一人の弟子(名前はわからない)がイエスに従っています。この二人がイエスに従ったのは、ヨハネが歩いておられるイエスを見つめて「見よ、神の小羊だ」と言うのを聞いたからでした。今日の福音書は、その翌日にフィリポとナタナエルがイエスの弟子になるお話です。ここでフィリポはイエスに声をかけられますが、ナタナエルはフィリポから声をかけられます。フィリポへのイエスの言葉は「わたしに従いなさい」というシンプルな言葉掛けで、他の福音書のように「人間をとる漁師にしよう」とか−彼らはすべてを捨てて従った−という記述はありません。「見よ、神の子羊だ」「来て、見なさい」という言葉によって次々と弟子たちが召し出されていく様子は、まるで「口コミ」で仲間が増えていくかのようです。ナタナエルという弟子はこのヨハネ福音書にしか登場しませんが、イエスに懐疑的であったナタナエルは、フィリポの「来て、見なさい」という勧めによってイエスに出会い、イエスを「神の子」と告白しました。ナタナエルの信仰の始まりです。繰り返される「来て、見なさい」という言葉は、わたしたちが信仰を与えられるためにはイエスについて「来て、見る」しかない、大切なことはイエスを「神の子」と信じるか信じないか、それが弟子となる条件であるとヨハネ福音書は語っています。
 「ナタナエル」という名前は「神、与えたもう」「神の賜物」という意味があります。それは、ヨハネ福音書を貫いている「神が与えてくださる者以外には、自分のところへ来ることはできない」というイエスの言葉を裏付けしているかのようですが、この言葉は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのだ」というイエスの言葉をも思い出させてくれます。そこには、わたしたちが神を知る以前から、神はわたしたちと共にいてくださっている、というメッセージが込められていると思うのです。
 わたしたちの教会の暦は、1月6日に顕現日を迎えてクリスマスの期節を終え、「顕現後」の期節に入りました。「顕現日」(エピファニー)の元の言葉の意味は、「現れる」「輝き出る」特に、目に見えない神様が礼拝に姿を現す、あるいは奇跡や出来事を通してその臨在を知らせるのに用いられた言葉でした。そのように考えると、ヨハネ福音書の弟子の召し出しのお話は、神様がわたしたちに、その臨在に気づくように、あるいは気づくようにより積極的に神様を求めてごらんなさい、と言われているように思います。
 「来て、見なさい」この呼びかけに応えるわたしたちであると共に、「来て、見なさい」と人々に呼びかけることのできるわたしたちでありたいと思います。