司祭 プリスカ 中尾貢三子
「おことばどおり、この身になりますように。」
保育園のページェントで、マリアを演じる子どもが、澄んだ声でまっすぐに答えました。
このマリアの応答を聞いていて、実際のマリアはどうだったのだろう、と思いを巡らしています。
マリアは、いいなずけのヨセフと一緒になる前に、聖霊によって身ごもり、神の子を産むと天使ガブリエルに告げられました。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」そして「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。(中略)聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」
この声を聞いたとき、マリアはまだ10代半ばだったと言われています。自分が神の子と呼ばれる子どもを産むことになると告げられたときの気持ちは想像を絶するものがあります。10代半ばの未婚の娘が、いまよりはるかに未婚・婚外での妊娠、出産に厳しく、時に命がけである時代を生きた彼女が、こう答えられたのはなぜだろうと思うのです。
それは、天使がマリアに繰り返し言った次の言葉なのかもしれません。「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」
高齢でもう子を産むことはないだろうと言われていた親類のエリザベトが身ごもったことによって神様には不可能なことはないのだということと、その神様がどんなときにもいつも一緒にいてくださるのだということ、この二つが大きかったのではないでしょうか。
そしてもう一つ。不可能なことは何一つない神様が、敢えて徹底的に尊重なさっていることがあります。それは人間の心に与えられた「自由意志」です。神は人間をご自分にかたどってお造りになりました。そのときに人間にこころの自由を与えられたのです。ただ神様の命令に考えもなく自動的に従って生きるのではなく、自分の意志で、神様の命じられたこと、求められたことに従うかどうかを決めて生きることができる。その可能性を与えてくださいました。その結果、人間は神様の願いや思いから逸れてしまいました。神を見失った「的外れ」つまり罪の状態に陥ったと言えます。
神様は、ご自分が人間を救う存在を私たちのために遣わす時、マリアの「同意」を必要とされました。無理やりでもなく、自動的にでもなく、マリアが自分の人生として神の子を産むことを引き受けることを、ほかならぬ神様が必要となさったのです。
「お言葉どおり、この身になりますように。」
迷い、苦しみ、思い煩いがあったかもしれない。けれどこの言葉は、神様の愛へのまっすぐな応答にほかなりませんでした。そしてマリアは、おそらくまっすぐに答えたのだと思います。イエスさまという方を、わたしたちのただ中へお迎えするために。