司祭 テモテ 宮嶋 眞
「マルキオンの聖書」
降臨節第2主日は、伝統的には「聖書の日曜日(バイブル・サンデー)」として礼拝を守ってきました。もちろん聖書は毎日、毎日曜日読むものですから、年に一回「聖書の日曜日」を守ろうというのは、かなり怠け者のキリスト教徒ということになるかもしれません。しかし、聖書そのものがどのように生まれてきたのかというようなことを考えてみる日曜日と捉えても良いのかもしれません。ここでは聖書の中でも、キリストと弟子たちのさまざまな言動を綴った「新約聖書」について見てみようと思います。
イエス・キリストとその時代の弟子たちは、何か書いたものを残すということはありませんでした。彼らは貧しく苦しい生活をする民衆と直接出会い、語りかけ、必要に応じて、癒し、慰めたのでした。キリストが十字架上に死に、復活し、数十年経って、パウロが自分の伝道した教会宛に手紙を書くようになりました。また、その後紀元1世紀の後半から2世紀にかけて、キリストの出来事はこのようだったといくつもの福音書が書かれ、弟子たちの言動についても文書が書き残されました。
その少しあと、ポントス地方(今のトルコ北部、黒海沿岸)にマルキオンという人が現れました。彼の生涯についてはあまりよく分かっていませんが、マルキオン派と呼ばれる彼の教会や考え方に対する批判の書物が、「正統」といわれるキリスト教の側からたくさん出ています。さまざまな批判がなされているということは、当時かなりの勢力を持った一派であったと想像されます。マルキオンは、今のような聖書が全くなかった時代に初めて、彼なりの新約聖書をまとめました。それは今の「ルカによる福音書(一部削除されている部分があります)」と彼が信奉した「パウロの書簡集」だけからなっていました。マルキオン派は、この聖書を定めたことによって、宣教の根拠が定まり、非常に発展したようです。
しかし彼らはその後、異端として斥けられていきます。マルキオンが自分たちの教会のためにいくつかの書物を集め「(マルキオンの)聖書」を作ったというやり方は、その後、正統派の教会に逆に採用され、最終的に現代私たちが手にする新約聖書(正典)の形が200年ほどかけて出来上がっていきます。現代の聖書が決まっていく過程で、マルキオンの「正典を編集する」というアイディアは大変貴重なものだったと言えます。
現在の聖書の中に、文書を収録していく際の基準はなんだったのか。また、福音書の順番はどうやって決まったのか(現存する写本では7通りほどあるようです)。その他の手紙や、ヨハネの黙示録がどのような過程で、聖書の中に選ばれていったのかなど、正典編集の過程は十分に明らかではありません。いつの間にか定まってきたことを「聖書のメッセージそれ自身が聖書を定めた」という言い方もできますが、まさにミステリー(神秘)と言ってもよいのかもしれません。
皆さんはどのように思われますか?