司祭 アンナ 三木メイ
「王であるキリストと、最も小さい者」【マタイによる福音書26章31〜46節】
降臨節前主日は、聖霊降臨節の最終主日でもあり、一年の教会暦の最後の主日です。この日の聖書日課は、「神様が救いを完成される終わりの時がやってくる」という終末信仰を背景とした聖書箇所が選ばれています。当時の人々は、その終わりの時に人々は皆神の御前に立たされて、これまでどのように何を大切に生きてきたか、それは神のみ旨にかなっていたかが問われる「最後の審判」があると考えていました。その審判によって、救われる者は神の国(永遠の命)へと招かれていき、そうでない者は悪魔の支配下で罰を受けるというのです。
そういう終末への不安をもつ人々に、たとえ話が語られます。羊と山羊とを分けるように、正しい人とそうでない人を分けるのは、王=メシア=キリストです。そして、王は正しい人に、「わたしが飢えていたときに食べさせ、乾いていたときに飲ませ、旅をしている時に宿を貸し、裸のときに着せ、病気の時に見舞い、牢にいた時に食べさせてくれたから」、父なる神に祝福されて、神の国を受け継ぎなさい、と言います。正しい人々が、そのようなことをした覚えはありませんと告げると、王は「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と答えたのです。
この世に現実に君臨する王ならこんなことは言わないでしょう。何が違うのでしょうか。この世で最も大きな権力を指向する王たちは、誰かの助けを必要としているような最も小さい者の側には立たないで、より大きな支配権、より大きな財力や武力を求めていこうとするのではないでしょうか。
しかし、王なるキリストは逆なのです。最も小さい者たちの側に自ら立っていることを宣言し、このような人々への隣人愛の実践が、そのまま神への愛の実践であると断言しているのです。この言葉が、これまで神に見捨てられていると見なされてきた人々へのキリストの福音となっていきます。
私たちの社会においても、いつの間にか重要ではない位置に追いやられ、存在価値を認められない「小さくされている」人々がいるのではないでしょうか。
誰かの助けと愛を必要としている「最も小さな者たち」が、いるのではないでしょうか。イエス・キリストは、そのような最も小さい者に神の愛を伝えるために、この世に来られた神の子です。その王なるキリストの支配が、真実にこの世界にひろがっていきますように。