2017年11月19日      聖霊降臨後第24主日(A年)

 

司祭 ヨハネ 黒田 裕

主の喜びに入るため【マタ25:14−15、19−29、Tテサ5:1−10】

 早いもので、間もなく教会暦の一年が終わり、新しい年に入っていきます。日課も年の終わりと初めの接続にふさわしい箇所が選ばれています。「終わりの日」に関する箇所がしばらく続きますが、今年も国内外に大きな事件や災害も起こり、「終わりの日」について特別な思いを持たざるをえません。世も末と言いたくなるような不安の広がる社会状況のなかで、わたしたちキリスト者は、終わりの日をどのように受け止めたらいいのでしょうか。最初にふれましたように、今日の日課はいずれも、終わりの日に関する箇所が選ばれています。旧約では終末意識による緊張の緩みに対する警告が、使徒書ではその日にある審きへの不安や怖れに対応する内容が、語られています。とくに後者で、終わりの日の目的が、主と共に生きるようになるため(10節)と言われているところには留意したいと思います。
 さて、イエスさまはどうでしょうか。今日の福音書では、終わりの日が天の国の譬えを通して語られています。とくに注目したいは、なぜ「主人」は1タラントンを預けた僕にこれほどまでに激怒するのか、ということです。ここで思い出したいのは、旧約には、“土”が神さまと対立的な存在であるという思想が見られることです。だとすれば、土のなかに隠したとは、主人との関係を絶つことを意味したのではないでしょうか。また他の二人の僕への言葉には「あなたの主人の喜びに入りなさい」(21、23節の直訳)という言葉もあります。そこから考えるとこの激怒は、主人の目的があくまでも自分の喜びに入ることだったのに、それとは裏腹にこの僕が、主人の厳しさのみに目を向けて怖れをなし、主人との関係を絶とうとしたこと、にあるのではないでしょうか。
 こうして、イエスさまが仰りたかったのは、終わりの日が到来するときに主は、あなたがたが主の喜びに入ることを望んでおられる、主の恵みの賜物がそれぞれ十分に与えられている(Uコリ12:9)のだから、それを用いることによってその喜びに入りなさい、ということではないでしょうか。そしてさらにイエスさまは恵みの賜物を決定的にするために十字架へと進まれたのでした。こうしてわたしたちは「主と共に生きるようになる」のです。
 この世界がどのような展開を辿ったとしてもわたしたちは、この、主の日が到来する目的と意味とを共に意識し、「み子が再び来られるまでこの祭りを行」い、神さまの愛と憐れみ(恵み)に向け新たに派遣されていることを心に留めたいと思います。