司祭 ヨハネ 古賀久幸
油を携えて【マタイによる福音書25章1−13】
ガリラヤ湖のほとりでイエス様はご自身がパンを分け与えられたように、わたしたちにも困ったときは互いに分かち合うように望まれた。ところが今日のたとえ話では分けてもらえない、分けてあげられないものがあると言われる。
ユダヤの結婚式は夜に行われ、花婿は大勢の人々と花嫁の家まで行列を作ってやってくる。今回、その花婿の到着をともし火を整えて迎える栄えあるお役10人が花嫁の友人の中から選ばれた。張り切って一番の服を選び髪飾りやアクセサリーにも凝り、お化粧も念入りに整えて彼女たちは大役をこなそうとそれぞれランプに火をともして花婿の到着を待っていた。行列がやってきたのは真夜中。眠り込んでいた乙女たちは飛び起きてあらためてともし火を整えようと用意していた油をランプに継ぎ足したのだが、それができたのはあらかじめ壺に油を用意していた5人だけだった。残りの5人はさあ困った。少し分けてくださいとお願いするがそんな余裕はないと断られる。油を買いに行っている間に花婿の行列は五つの明かりに導かれ婚宴の扉をくぐったのだ。やっと油を手に入れたにもかかわらず5人の乙女は婚宴から締め出されてしまった。普段なら分かち合えるが、花婿の到来つまりイエス様のお取り仕切りがなされるそのときには貸しも借りるもできないものがあるのだ。婚宴に必要なものは美しいドレスやアクセサリーでもなかった。重く、邪魔で着物を汚してしまう油が入った壺だったのだ。
ある方のご葬儀を終えた後、喪主を務められたご長男が「母はからだが弱っても枕もとに聖書を置き、家族や孫のこと教会のことも祈っていました。わたしは仕事が忙しくて家族のことも自分自身のこともおろそかにしてきました。母の信仰はとても真似できませんがこれから少しでも祈りを身につけたいと思います。」と言われた。神の前に出るときは先祖の功徳も、本人の財産や栄達も役に立たない。神様から与えられた人生をどう遣ったのですか?とイエス様は問われるのだろう。その人生は貸しも借りもできないわたしたち一つのもの。神様は命と言う壺をわたしたちに与えられる。わたしたちの人生を絞って出てきた油をそこにためていこう。小汚い不純物いっぱいの油かもしれないがイエス様がおいでになられるとき火を絶やさない足しにできるかもしれない。