2017年10月22日      聖霊降臨後第20主日(A年)

 

司祭 パウロ 北山和民

「…ところでどうお思いでしょうか〈略〉。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」
〈略〉皇帝のものは皇帝に、神の物は神に返しなさい」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残してたちさった。(マタイ22:17−22)

★今週、マタイ22章15節以下の「納税の論争」をめぐって、まさに本主日が投票日の衆議院議員選挙で「消費税」の問題を、キリスト者としてどう考えているのかと問われているようです。消費税を上げようとしている権力も、大きな神さまのお計らいの中にあるから従属せよと聖書は言うのだろうか? 本当にすべてのものは、「主の賜物」なのだろうか?

 本日の論争とは、皇帝への納税について反対のファリサイ派の人と、容認のヘロデ派の人が、民衆に人気のイエス一味を陥れるためなら一緒になったという(政治的にも)興味深い話で、共観福音書3つが漏らさず採っている実に重要な個所なのです。
 つまりイエスの答え、「皇帝の物は皇帝に…神のものは神に」を聞いた者は、皇帝の像(偶像)を納税という形で拝んでいる己こそが偽善者だと示され深く驚いた。ファリサイ(イスラムも私たちの宗教も)が最も忌むのは「偶像崇拝者」だったはずなのに、イエスと問答して、己こそが偽善者だったと気付かされたのです。そしてその妬みのゆえにイエスの十字架があることを私たち聞く者に予感させるのです。これは私たちの社会、政治にも深刻な偽善性があることに気づかせます。
 私たちはこの政治的な季節に、この福音を聞き、何に気付き、何に招き入れられるべきなのでしょうか?
 ユダヤ社会にとっては屈辱的な(この納税だけではない)問題と歴史を深く学び、現代にも通じる「宗教の偽善性」について考えることでしょう。
 さらに「主なる神のものでないものは何一つない。神の計らいから外れた権力(納税)はない。だから教会は大丈夫」などと、皇帝も使える理屈をわかったように教会も説教できないこと。本日のイザヤ書45章と、3つの福音記者が一致して記すように「まだ今(十字架の前の時)は、神を知らない」。つまり「私たちはこの社会(納税)を分かち合いの神、十字架のイエスのものに未だにできていない」、あのイエスの応答と「十字架」がつながっているのはなぜなのか、という黙想がまだまだ必要なのでしょう。