2017年10月15日      聖霊降臨後第19主日(A年)

 

司祭 サムエル 門脇光禅

「神さまの宴席に招待されていること」【マタイ22:1〜14】

 今日の福音書を読むといつも悩んでしまいます。
 神さまがイエスさまをキリストとして人類の中で最初にユダヤの人々に遣わされたわけですが、彼らは受け入れようとしません。そして預言者の言葉にも耳を貸しません。
 自分の都合を第1に考え畑に行き、また商売に行ってしまいます。ついに神さまの怒りがどんなに大きいかをイエスさまが語られました。
 王様自ら食事の準備をして「食事の用意ができました」と言っています。また王様が大事に育てた牛という意味で「牛も肥えた獣も」と書いてあります。
 最高のものを王様が用いて婚宴を催したのです。
 私たちもこの箇所を客観的に読むと、そこまでされたら招待を受けないといけないと考えます。
 でも実際に私たちは神さまが準備してくださった宴席つまり聖餐式に対して「何を犠牲にしても出席しなければ」という気持ちで出席しているでしょうか。
 「大切な人に会う約束がある」「重要な仕事が入ってしまった」「どうしても買い物があって」等々神さまが心をこめて備えてくださった宴席としての聖餐式に出席をことわる場合がないとはいえないのが現実です。
 その点ではあまり変わらないような気がします。この譬話はユダヤ人だけに言われたのでは無いように思います。私たち自身に言われているように思うのです。ですから、悩んでしまうのです。
 招かれた人たちも王様が自分達のためにこれほどまでにしてくださったことに対して非常に感謝していたとは思うのです。
 でも、一方では彼らは畑を耕すとか商売があるからとか地上の生活があるから心ならずも行けなかったわけです。ですから、もし王様に招かれたら「自己中心」を捨てなければ、招待に応えていくことはできないということなのです。
 キリスト教で言う「罪」とはこの「自己中心」「神さまからの離反」と言われています。
 また人生とは「選択」と「排除」の連続とも言われます。つまり、何かを選択するということはその他を排除するということです。
 たとえば、生涯の伴侶を選ぶと言うことは他の人を配偶者にしないということです。
 この人たちは「自己中心」を捨てることができませんでした。イエスさまが言われているように(マタイ10:22参照)ときに私たちは神さまのことよりも他人から憎まれたり、悪口を言われたり村八分にされることを畏れてしまいます。
 私たちは「自分ファースト」を捨てなければ神さまの招待に応えていくことは出来ないのです。
 自分の立場や欲を捨てなければ、神さまの招待を受けることが出来ないと言うところに難しい点があると思うのです。
 さて「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」とあります。
 町の大通りというのは色々な人がいました。貧しい人や職が無く暇な人たちもいました。
 その人たちが善人であろうが悪人だろうとすべて招待されました。
 これはユダヤ人以外の異邦人に対する招きという意味にもとれます。礼服を着けないで来た者に『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。』と厳しい命令が下ります。
 教会の招きに「もう少し自分が教会人にふさわしくなってから」とか信仰を持つことに何か神さまに前に必要なものを手に入れないといけないようなことを言う人がいます。
 神さまの求めているのは砕けた魂(自分の罪の意識と悔い改め)だけです。
 神さまは私たちみんなを招待されているのであって礼服は玄関に用意されています。
 礼服とはイエス・キリストを着ることです。それは「イエス・キリストを信じる」ということなのです。私たちの罪が赦されるのはイエス・キリストの十字架の贖いを信じることが条件です。
 私たちはただ十字架による救いを信じ、すべてを十字架により頼んで生きて行きたいと思います。
 そして、私たち異邦人も救われるのですがユダヤ人もまた救われなければいけないとイエスさまは説かれているのではないでしょうか。