2017年10月8日      聖霊降臨後第18主日(A年)

 

司祭 ヤコブ 岩田光正

「神様から期待されている豊潤な『収穫』の献げ物」

 私の勤務している幼稚園で、先日、運動会が行われました。頑張っている子ども達に声援を送っている時、ある不安が一瞬脳裏を過りました。そして、心の内に思わず祈ったものです。それは、この可愛い子ども達が決して生涯、戦争など辛い経験をせずにすみますように!
 最近、北朝鮮の核・ロケット開発を巡って国際情勢が俄かに緊張していますが、近隣の日本は他人事ではありません。仮に世界的規模の大きな戦争が暴発すれば、どれほど大きな破壊につながるのか想像すらできません。
 さて、私は今週の福音を読む時、痛切に感じます。神様は、ご自分の創造されたすべての被造物を人に信頼し、その管理を委ねられたにも関わらず、人は神様の思いに背き、なんと貪欲に破壊を繰り返していることでしょうか?そして、取り返しのつかないような不幸に向かって進んでいないだろうか?
 福音に登場する農夫たちの姿は、今日の私たちの姿と重なります。旅に出た主人、つまり神様がもはや不在で存在しないかの如く、委託された「ぶどう園」を自分たちのもののように支配している農夫達。しかし、主人は彼らの所に豊かな「収穫物」を受け取るために次々に僕たちを派遣しますが、彼らは主人からの使者を迫害したり、殺したりしてしまいます。
 いま世界各地で様々な問題が報じられています。テロや内戦、暴力、難民、深刻な環境破壊、異常気象、人種差別、核兵器開発とその脅威・・・一方、時には現代の賢明な「預言者」や国際機関などの団体から自制や反省を促すために、預言者的な警告が送られるものの、その声に真剣に耳を貸すことなく、押し殺してしまい、ますます収奪の限りを尽くしている人類、そして神様からのぶどう園から結局、どのような収穫を刈り取ろうとしているのでしょうか?
 今、実を結んでいるのは歯の浮く様な酸いぶどうばかり、未来、芳醇なブドウ酒など期待できるのでしょうか?このように批判している私自分が、今の社会の体制の中で平穏に生活している、そして、世界は変わらないと感じている自分を正直認めざるをえません。
 ところで、私たちの目には、世界にもはや良い実を結ぶなど出来っこないと落胆してしまいそうな現実ばかりです。しかし、神様の思いは私たちの思いなどはるかに超えています。神様は決して諦めることなく、いつか良い実を結び、私たちの「収穫物」が献げられる時を忍耐して待ってくださっているのではないでしょうか?そうでなければ神様は、その時、大切な跡継ぎの息子を敢えて貪欲で罪悪に満ちた「ぶどう園」に送り、死なせることなどなさらなかったはずだからです。
 神様は、ご自分に似せて造られた大切な存在である人が幸福に暮らせるため、本来豊かな実りをもたらすはずのぶどう園を造り、信頼してその管理を委託されました。今も神様のこの信頼は変わらないと信じたいものです。そして忍耐を重ねて、いつか私たち人類がご自分の息子によってご自分に立ち帰り、豊潤な「収穫」の献げ物を待っておられるのではないでしょうか?
 最後、イエス様は「家を建てる者の捨てた石」となられました。しかし、この石こそが教会という家の「隅の親石」となり、この教会を通じ、神様は、イエス様の十字架の死と復活の出来事を人類の罪の赦しと救いの約束であることを指し示してくださっています。また、私たちがイエス様によって良い実を結ぶために一番大切なものは何かを教えようとしておられるのです。私たち教会は、まさに今、イエス様を見つめ直して、神様の思いに目を向けることが求められているのではないでしょうか?そして、この世界というぶどう園からの豊潤な「収穫」をお献げできるよう、神様に祈り求められているのではないでしょうか?