2017年9月24日      聖霊降臨後第16主日(A年)

 

司祭 セオドラ 池本則子

神様の恵みは平等

 あるぶどう園の主人が夜明け・午前9時・12時・午後3時・5時と5段階に分けて労働者を雇いました。午後6時に仕事が終了し、働いた時間の短い人たちから賃金が支払われます。その金額は5時から働いた人も夜明けから働いた人もすべて同じ1デナリオンでした。すると、夜明けから働いた人の1人が1時間の人たちと同じ賃金であることに不満を持ち、主人に『まる1日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは』と不平を言いました。しかし、その人は夜明けに雇われた時、1デナリオンの約束をしていたのです。主人は『あなたに不当なことはしていない』と言い、『わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか』と答えられたのでした。

 これはイエス様が話されたたとえ話です。ぶどう園の主人は神様であり、労働者は私たちです。1デナリオンは神様の恵みです。私たちは日々、神様からいろいろな恵みをいただいています。1デナリオンは1日分の賃金と言われています。それは夜明けから働いた人も5時から働いた人も等しくその日生きるのに必要な金額でした。『わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ』という主人の思いは、労働時間に関わらず、すべての人が同じようにその日の生活を送れるように、ということだったと思います。夜明けから働いた人がたった1時間しか働いていない人と同じ賃金であることに不満を抱くのは当然かもしれませんが、5時に雇われた人たちは決して怠けていたわけではありませんでした。朝から仕事を探していたのですが、雇ってくれる人が誰もいなかったのです。主人はそのことを知っていたからこそ、同じ賃金を支払ったのではないでしょうか。

 労働者が1日生活するのに1デナリオンが必要なように、神様は私たち一人ひとりにもその日必要な1デナリオンの恵みを毎日等しく与えてくださっています。神様は私たちがこの世でどれだけの働きをしているか、どのような功績をあげ貢献しているか、またどのくらいの年月信仰生活を送り、どのような信仰を持って過ごしているか、などといったこととは関係なく、皆それぞれに等しく恵みを与えられています。『自分のしたいようにしては、いけないのか』。それは、神様の自己中心的な思い、自己満足なのではなく、すべての人を等しく愛してくださっているからなのです。すべての人が神様の恵みの中で感謝と希望を持って過ごして欲しいからなのです。

 私たちが人に不平不満の気持ちを抱くとき、自分に与えてくださっている神様の恵みに気づいていないのかもしれません。『わたしの気前のよさをねたむのか』。私たちは人に与えられた恵みと自分に与えられた恵みとを比較してねたむのではなく、自分だけではなくすべての人に神様の恵みが与えられることを願いたいと思います。

 すべての人に豊かな恵みを与えてくださっている神様。私たちは自分の功績を誇るのではなく、他人と優劣を競うのではなく、ただ神様から与えられた恵みに気づき、そのことを感謝したいと思います。どんな些細なことでもすべて神様が与えてくださった恵みです。神様の支配されるこの世界のすべての人が神様の豊かな恵みに気づき、共に喜び合って過ごすことができますように。