2017年9月3日      聖霊降臨後第13主日(A年)

 

司祭 エレナ 古本みさ

『神さまのために、イイコトしよう!』【マタイによる福音書16章21−27節】

 子どもの頃から、この福音書箇所は怖い!と思ってきました。わたしにとって、イエスさまは物心ついたころから友だちのような、また親のような、いつもいつも一緒にいてくれる存在でした。そんなイエスさまが一番弟子の、それもついさっき、天の国の鍵をさずけられて優等生の太鼓判を押されたばかりのペトロをサタン呼ばわりするのです。大好きなイエスさまが無事でいてほしい、死なないでほしいと心から願っただけなのに。

 イエスさまの恐ろしく厳しい言葉は続きます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。子どものわたしは、手足を釘で打ちつけられるという想像すらしたくない絵を自分の頭から振り払うのに必死でした。イエスさま、無理です、無理です、ごめんなさい!できるだけこの箇所に触れないようにしてきた、そんな気がします。

 でも、大人になって知りました。イエスさまの十字架は、痛い痛い思いをするための道具であるだけではなかったということに。それは、神の栄光を表わすためのものであり、神さまの夢を叶えるためのものだったのです。神さまの夢。それは、罪あるわたしたち一人ひとりと和解すること、そしてわたしたちとともに平和と愛に満ちた神の国をつくりあげることです。

 だとしたら、わたしたちの十字架って何でしょう? <自分を捨て、自分の十字架を背負う>ってどういう意味でしょうか? ひょっとして、自分のためではなく、神さまの夢を実現するために生きるということ? 自分はちょっとがまんして、神さまがお造りになったこの世界と人々のためにイイコトするということなのかも。世界中の人が実行したらあっという間に神の国が完成するかもしれません。そして、その先には<永遠のいのち>という、わたしたちのちっぽけな行いにはまったく見合わないような、ものすごいごほうびが用意されているんですって! さあ、あなたは何をする?