司祭 エッサイ 矢萩新一
「心の畑には」【マタイによる福音書13:24−30,36−43】
今日の福音書は、イエスさまが語られた「毒麦のたとえ」が記されています。ある人が、「行って(毒麦を)抜き集めておきましょうか」と言ったのに対して、主人は「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と答えました。これはみなさんご承知の通り、天の国をたとえた話です。後半の説明の中で、畑とはこの世界のことで、良い種(麦)はみ国の子ら、毒麦は悪い者の子らだと記されています。
毒麦という植物は、イネ科の中で唯一毒を持ち、小麦によく似ていて、ある程度成長して穂が出るまではなかなか選別できないそうです。イエスさまはこの僕と主人の関係が、神さまと私たちの関係と同じであることを教えられています。
神さまはこの世界に良い種を蒔かれたはずなのに、なぜ毒麦が生えて来るのだろうかと、私たちは悪い人や劣悪な事件のことを嘆きます。私たちはこの物語を読む時、自分は良い麦だけれども、毒麦も一緒に生えているから気を付けなければと思ってしまいがちです。しかし決してそうではなく、私たちの心の畑の中にも、麦と毒麦が生えているのだと私は思います。毒麦がたくさん生えているか、よい麦の方が多いか、実はそれは、ほんの少しの差でしかないのかも知れません。
「あの人は他人に迷惑ばかりかけているからダメだ」、「この人は罪深い人だからダメだ」と、人を毒麦扱いしてしまっていないか、自分自身に問いかけてみたいと思います。私たちはそんな単純によい人間、悪い人間と二分化できるような存在ではありません。聖書をよく読んでみますと、取税人・罪人の頭であったザアカイや、罪深いとされていた女性、汚れているとされていた重い皮膚病を患った人々が、イエスさまのところへ招かれています。世間からは毒麦だとされ、引き抜かれようとしていた人たちが、イエスさまに招かれたことによって、心を入れ替え、自尊心を保ち、病が癒され、よい麦として豊かな実を結ぶようになりました。
畑仕事に従事している人であっても、毒麦を見分けるのは難しいということですから、私たちが素人目にこいつは毒麦だから引き抜かなければと判断してしまうのはとても危ういことです。私たちの勝手な判断で、これは毒麦だからと、抜き取って捨てようとすることは、天の国の価値観ではありません。そして、たとえ毒麦のように見えても、毒麦が少し生えていたとしても、神さまは忍耐をもって、刈り入れの時まで待っていて下さる方だということを忘れずにいたいと思います。
私たちは、人の畑に生えている毒麦を探し出して抜き取ることよりも、自分の心の畑にもよい麦も毒麦も両方生えていることを自覚して、その毒麦を抜くことなく忍耐して待っていて下さる神さまに感謝する者でありたいと思います。