執事 ダニエル 鈴木恵一
イエスさまの語られた言葉には、たとえ話が多くあります。その一つが今日の「種を蒔く人」のたとえです。この「種を蒔く人」のたとえ話は、他にもマルコによる福音書やルカによる福音書にも記されている、とても有名なイエスさまのたとえ話です。
たとえ話というのは、聞いている人に伝わりやすいように、たとえをつかって語るものですが、このたとえ話については少し違うようです。
今日の朗読では省かれていますが、10節11節にこんなやりとりがあります。
弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。」
イエスさまのたとえ話は天の国の秘密にについて、イエスさまのことを受け入れない人には、見ても、聞いても、理解することができない謎の話になってしまいます。イエスさまが実際に話しておられたというアラム語の「たとえ」という言葉には同時に「謎」という意味もあるようで、興味深いことです。
謎という意味では、種を蒔く農夫の姿も、日本に暮らす私たちにとっては、謎に見えるのではないでしょうか。大切な種ならばきちんと畑を耕して、そこに一つずつ大切に植えれば、全部の種が目をだして、それこそ多くの実を結ぶのに、と思います。
でも、パレスチナでの種蒔きはそのようにしても、日差しが強いためにすぐに干上がってしまうのだそうです。このたとえ話の農夫のように、土地一面に種を蒔いて、その土地を掘り起こすように耕して、種を地中深くに入れることで、乾燥から新芽を守るという農法が、適しているそうです。一見無駄が多いように見えますが、このようにすることで、豊かな実りが約束されているのです。
多少の石ころがあろうとも、茨が生えていようとも、後で掘り起こしてしまえば、それも畑になるのです。でも、そこが養分に満ちた良い土地かどうかということは、農夫にも分かりません。道ばたや石の上や茨の間に落ちたままの種は、確かに育つことはできません。でも、この農夫は道ばたも石があっても茨もいっしょにすき込んで、豊かな畑に変えてしまうのではないでしょうか。
このたとえ話から、良い土地を選んで蒔くのではなく、種が蒔かれた土地が良い土地かどうか、というよりも、大きな収穫が得られる約束を信頼して、希望を込めて種を蒔く農夫の姿を感じることが出来ます。わたしたちには無駄のようにみえたとしても、そこに神さまのみこころがあることを知ったとき、わたしたちの心も大きな実りにみたされます。