司祭 マーク シュタール
ゼカリヤ書の歌は幾分、なじみのある内容です。人々の心の高揚感は人から人へとどんどん伝播していっています。人々はバビロン捕囚の終焉を、そしてイスラエルでの統一と平和の実現に期待を膨らませています。ゼカリヤの描くイスラエルは、単に聖なる町としてではなく、新しい国家、新しい彼らの世界の鼓動打つ心臓として描かれています。この歌になじみを感じるのは、シュロの日曜日に読まれる福音書と重なるからです。イエスは卑しくろばに乗ってエルサレムに入城しますが、人々は高らかにホサナと歌い、王として迎え入れます。ゼカリヤが預言した通りだと、平和の君として大いなる期待をよせて迎えられるイエス、皆、その花道をシュロの葉で飾ります。神の時は熟したと。しかし、イエスが示したかったのは、そのような平和はそれぞれの内に満ちているのだということです。その依拠するところは、福音書です。神様の慈しみを説いているそのみ言葉の中に。
今日のみ言葉「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになった。」というところは誤解の生じやすいところです。知恵のある者の能力を否定しているのではなく、そのような人が捕われがちなプライドを非難しているのだと思います。イエスは、学者やパリサイ派の人々からひたすら拒絶され、身を追われました。しかし、一方で、社会で最も低くされた人々からは熱狂的に慕われます。スコットランドの神学者ウィリアム・バークレーが福音書について言ったように「賢さが拒絶を生むのではなく、プライドが拒絶を生むのである。愚かさが受容を生むのではなく、謙遜が受容を生むのである。」ということです。では、イエスを拒絶する事なく、謙遜の精神で受容する者には何がもたらされるのでしょうか。そのような人は重荷から解放され、イエスの軽いくびきを負い、より軽い荷を担うようになるのです。くびきは私達をイエスと結ばせ、イエスと結ばれて荷は軽くなるのです。
パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、ゼカリヤ書で書かれている平和は単なる希望的観測の羅列ではないと説明しています。むしろ、福音書にある通り、万人に約束された内なる平和、己の中にある平和であると。それは、己の重いくびきに代えて、キリストの軽いくびきを負う安堵の平和です。
パウロはそれには段階があると言います。まず、己を知ること。自己の内面を見つめ、これ以上は無理だという限界、負える限界を知ること。人によっては、その限界を知って初めて、目が開かれます。人によっては、もっと早い段階で目が開かれます。いずれにしても、その時点で初めて、人は己以外に助けを求めることを知るのです。ローマの信徒への手紙7章24節:「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」私達も同じような思いを吐露した事があるかもしれません。しかし、皆同様なのです。「アメージン・グレース」を書いたジョン・ニュートンも「AA(アルコホーリクス・アノニマス;飲酒問題解決を目指す自助グループ)」の創始者ビル・ウィルソンもそうです。我々のどん底の経験が明かしてくれています。それは、我々は己の力ではどうする事も出来ない時があるということです。自らの力だけでは神様に受け入れられる程、素晴らしい人間にはなり得ないし、同時に、神様に拒絶される程、自らの行いによって酷い者にもなり得ないのです。どれ程、努力し、決意を固くし、心を尽くして、良き者になろうとしても、あるいは、悪者になろうが、不十分なのです。自分の行いによって到達する領域はなく、ネズミが回転はしごを走り続けるように終わりは見えません。法でも限界があります。パウロはさらに洞察を加え、時に私達は、悪意を持ってしたことが結果、良い行いになる事すらあるというのです。知らずに神様に近づいていたりするのです。神様に委ねきれない人間の愚かさでしょうか。
私達は内面において葛藤があります。善悪できれいにわけられる事ばかりではありません。私達は個人的にゼカリヤのように期待を膨らます事があります。また、イエスが全く重荷を取り去って下さるのではなく、軽くして下さることで神様との本当の関係が生まれるということも理解できます。パウロは、その関係を受け入れる前にしっかり、内なる葛藤が果たして「自分一人の葛藤なのか、神様の御心との葛藤なのか」見つめるようにと諭しています。