司祭 セシリア 大岡左代子
「人々を恐れず、迫害を恐れず、宣教の業に励みなさい」 【マタイ10:24−33】
教会の暦は聖霊降臨後の期節に入りました。わたしたちが過ごす「時」は、イエス・キリストの生涯を辿る「イエスの時」から「教会の時」「宣教の時」に移りました。
イエスは飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれた群衆を見て深く憐れまれ、12人の弟子たちの派遣を決意されました。その派遣に際してイエスは迫害の予告を弟子たちに話されました。それまでの伝統的なユダヤ教の枠を外れたイエスの教えは、当時伝統的なユダヤ教を信仰していた人々にとっては「異端」とさえ映っていたでしょう。イエスは弟子たちに向かって言われました。『人々を恐れてはいけない。覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。』と。『暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい』、それまでは自分たちの共同体の中で共有していたイエスの教えをいよいよ外へ出て人々に伝えに行きなさい、という宣教命令を出されたのです。当時「イエスの仲間である」と言い表すことはそう容易でなかったでしょう。イエスは「恐れるな」と三度も言われています。「恐れるな」・・・どこかで聞いた言葉ではないでしょうか。イエスの誕生の予告に際して天使がマリアやヨセフに語った言葉、イエスの墓を訪れたマグダラのマリアたちに天使が語った言葉、そして復活されたイエスが語られた言葉です。神の力が現わされる時に語られた言葉です。「恐れるな」との言葉のあとには「わたしはあなたと共にいる」という神様の言葉が聞こえてきそうです。
キリスト教国ではない日本の文化・習慣の中でクリスチャンとして生きる、ということは時に困難を伴います。職場で、学校で、地域で自分がクリスチャンであるということを告白するには勇気がいる、という声をしばしば耳にします。そこには、非常に少数派であることによる不安や恐れがあるのではないかと思います。そのような状況にあるわたしたちは、「人々を恐れず、迫害を恐れず、宣教の業に励みなさい」、というイエスの声をどのように受け止めることができるでしょうか。わたしたちはこれから降臨節を迎えるまでの長い「教会の時」「宣教の時」を過ごします。「宣教の業に励む」ことの意味を自らに、また共同体に問いかけながら歩みたいものです。そして、わたしたち一人ひとりが、恐れずに、大胆に「イエスは主である」「わたしはイエスの仲間である」と言い表し、イエスの歩みに倣う者へと導かれるよう願います。そのわたしたちの歩みには「恐れるな」と言ってくださる方が必ず伴っていてくださることを信じましょう。