2017年6月18日      聖霊降臨後第2主日(A年)

 

司祭 クレメント 大岡 創

「収穫の主に願いなさい」【マタイ9:35−10:8】

 今日の福音書は、聖職按手式(司祭按手)において読まれる箇所でもあります。「収穫は多いが働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送ってくださるよう収穫の主に願いなさい」とは文字通り聖職になる人が増し加えられるように祈り求めるとの意味ですが、今日の教会や教区の現実を見ると「収穫は少ないし、働き手も少ない・・」といった嘆きの声も聞こえてきそうです。しかし、収穫とは刈り入れのことであるならば、私たちのまわりには多様な価値観や困難を抱えた人たちが多くいる、それだけに教会の抱える課題もたくさんあるという現実の状況をよく現わしていると言えます。
 飼い主のいない羊のように、弱り果てている群衆でありました。その姿を見て「収穫は多い」といわれているのです。また、使徒書ロマ5:6−11には、私たちは新たな使命を受けた神の民であることが記されています。キリストが取るに足りない私たちのために死んでくださったことにより、私たちが義とされ、神と和解させていただいたのです。私たちはこの無償の愛によって新しくされたもの。この示された愛を証ししていく使命をいただいています。
 考えてみれば、群衆とは決して病を患っている人たちとは限りません。表面的に見れば何の変哲もないように見えても、実際には色んな悩みを抱えていることがあります。そのような人たちが弱り果てているように見えたというのです。だからこそ、わたしたち自身が働き手としての覚悟をもつことができるように願うことも大切なことですが、それ以上に収穫をしてくださるのは神さまであること、その神さまのあわれみによって、実りをご自分のものとされるのです。私たちがそのあわれみによって生かされますように。そこに「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」の原点があるように思います。