2017年5月21日      復活節第6主日(A年)

 

司祭 テモテ 宮嶋 眞

「私はぶどうの木」の話に疑問あり【ヨハネによる福音書15章1−14節】

 福音書の中では有名なお話です。実際、「ぶどう」のシンボルが描かれた飾りや、牧師の身につける衣装のデザインなどが教会の中に一つや二つ必ずあるのではないでしょうか。私が所有している牧師のストールにもぶどうの刺繍がしてありますし、礼拝堂の十字架にも、ぶどうの蔓が巻きついています。讃美歌にも多く歌われています。それほどに親しまれているお話ですが、ぶどうを育てた経験をもつものにとっては、いきなり首をかしげたくなるような表現があるのも事実です。
 今回は、聖書を疑ってみよう、問題提起をしてみようと思います。復活のイエス様に出会ったトマスという人は、イエスの復活を疑うところから、真理へと導かれたという話もあるくらいですから。
 さて、15章の2節「私につながっていながら実を結ばない枝はみな、父(=農夫)が取り除かれる。」とありますが、ぶどうの枝の剪定は、木が活動していない時期に、前もって行うもので、実がならないから剪定するのではなく、実を結ぶため、枝葉に養分がいきわたるために前もって、それもかなり大胆に枝を剪定するのです。福音記者はブドウ栽培の基本を知らないで、この話を始めていると思われます。
 また、2節では「つながっていながら実を結ばない」ことが問題とされていたのですが、それに続く5節では「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」6節「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられ焼かれてしまう」とあり、木につながっているか、いないかが問題とされ、結局のところつながっていないと排斥されるという「排除の論理」が顔を出しているように思います。
 このような表現を見ても、このお話を語った人、書きとめた人はぶどうの栽培に関しては知識も関心も無かったのではと思われます。そこにあるのは木につながって実を結ぶか、つながらないで切り落とされて捨て去られるかという選択を迫るような雰囲気が支配しているように感じられます。本当にこの話をイエスさまが語ったのだろうか疑問に思われます。
 これは「脅し」ではなく「招き」のための話なのだと思いたいのですが、その後に続く「友のために自分の命を捨てること。これ以上に大きな愛はない」という言葉も、麗しい表現のようですが、自分が属するグループに忠誠を誓うことを勧める言葉のようにも受けとれます。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」といわれたイエスの言葉からは、かなり遠いように感じます。最近の「○○ファースト」という内向きの考え方に通じるような表現ではないかという気もするのです。
 イエス・キリストが生きられた福音の精神はこのようなものだったのでしょうか?
 今回は、問題提起にとどめさせていただきます。皆さんはどのようにこの物語を受け止められますか。慣れ親しんだ物語であればあるほど、改めて問い直しても良いのではないでしょうか。