2017年4月30日      復活節第3主日(A年)

 

司祭 ヨハネ 黒田 裕

「断片」であるわたしとキリストの体【ルカ24:13−35】

―繰り返し述べるが、「断片」は完結せず必ず他の「断片」を予想し、他の断片との連帯を期待し、さらに遥かに「統合」の未来を希望として持つ。しかしその「統合」はもはや人為のよくなす所ではなく、神の終末における希望としてのみあり得るであろう。大切な事はそれぞれの「断片」を、誠意をもって生き抜くことではなかろうか―(関田寛雄『「断片」の神学―実践神学の諸問題』より)。

 自己の存在のあまりのちっぽけさや無力感に苛まれた時、恩師のこの言葉がふいに思い浮かび、慰めと励ましを受けました。そこに、福音書のエマオでのイエスさまと弟子との新たな出会いと重なるものを感じます。エマオへの道中、聖書にある救いの記録がイエスさまによって「開かれ」(原典より)、それによって弟子の新たな命が開かれたということができるのではないでしょうか。しかも、はじめにイエスさまだと分かったのが、彼らが一緒に食事の席についていたときだったことも見逃せません。ここで聖餐が暗示されているのは言うまでもありません。そのパンはキリストの体をあらわしています。そして注目したいのは、そのパンが裂かれていることです。

 ここで、わたしたちの聖餐式に目を向けてみたいと思います。「奉献」というパートは、根本的にはわたしたち一人ひとりをここで差し出していることを示しています。そして、このあと裂かれるパンは、裂かれたキリストの体をあらわしています。十字架上で壊されたイエスさまの体をあらわしているのです。

 こうして、次のような洞察にたどり着くのです。パンの、その一かけらは、わたしたち一人ひとりの実存でもあるのではないか、と。聖餐のパンのひとかけらは、「断片」であるわたしたち一人ひとりの存在そのものをあらわしているのではないでしょうか。そして、その一つひとつの断片的存在と共にキリストはおられ、主は終末論的な「統合」へとわたしたちを招いておられるのではないでしょうか。エマオでの、復活の主との出会いは、絶望に陥り、無力感にさいなまれる弟子たちが新たな命を得て、息を吹き返す出来事でした。断片であるわたしたちの、そのひとかけらひとかけらに、キリストは共にいてくださり、新たな息吹を吹き入れてくださるのと同時に、そのひとかけらひとかけらが、大きなひとつに結びあわされる統合の未来を仰ぎみることが赦されている―。そのことを共に確認したいと思います。