司祭 ヨハネ 古賀久幸
「イエス様の懐にとびこもう」【ヨハネによる福音書20章19−31】
昨年の秋、調理後の油の始末に失敗して左手をやけどしてしまった。水ぶくれになったところを破らないように数週間慎重に養生した。半年以上たって外見ではほぼわからなくなったがそれでもときどきやってくる傷の疼きがあのときの痛みを思い出させる。ちいさなやけどでさえあれほど痛かったのに、釘で手や足の骨を砕かれて十字架にはり付けられたイエス様の痛みはどんなだったろうか。
イエス様を見捨てた弟子たちは十字架刑のありさまを仲間の女性たちや唯一弟子の中で目撃していたヨハネから一部始終聞いていた。絶望、悲しみ、落胆、裏切った後悔、慙愧、連座への恐怖、狼狽・・あまりに多くの負の感情に弟子たちは支配されていた。厳重に鍵をかけて何の目的も無く焦燥のなかで時間だけをやりすごす弟子たち。ところが、突然彼らの真ん中にイエス様がお立ちになりご自身の傷を見せられ「平安あれ」と言われた。弟子たちの暗黒の心の中に希望と喜びが広がり始める。たまたま外に出ていて居合わせなかったトマスは帰ってくると空気が一変していることに驚いた。聞けば仲間は口々にイエス様が現れなさったと言う。トマスはにわかに信じがたく、いや!目撃だけではなくイエス様の釘跡と槍の傷に自分の手を突っ込んでみなければわたしは信じないと叫ぶ。まさに、パニックになって助けの手にも噛み付いてくる穴に落ちた猫だ。
それから八日後、トマスの前にもイエス様がお立ちになられた。イエス様はトマスの疑いを見透かすかのようにあなたの手をわたしの傷に入れなさいと言われる。イエス様の傷跡は生々しく開いていたにちがいない。イエス様は「わたしはあなたのために何度でも痛もう」と言われたのだ。トマスのかたくなな心が溶けた一瞬だった。最期の晩餐の前、固辞したにもかかわらずイエス様は弟子たち一人ひとりの汚れた足を洗われた。そのとき「もし、わたしがあなたを洗わないなら、あなたと何のかかわりも無いことになる」と言われたことをトマスは思い出したに違いない。あなたが本当に生きるためにわたしは何度でも痛もう。引掻かれ噛みつかれ血だらけになっても穴に落ちた猫のような自分を救ってくださるイエス様の深い愛にトマスは打たれ「わたしの主よ、わたしの神よ」と言いながらイエス様の懐に飛び込んだ。イエス様は愚かで疑り深いわたしたちにさえ、あなたが本当に生きるためにわたしは何度でも痛むよと、傷の両手を広げて待っておられるのだ。ちいさな子どもが「おかあさん!」と泣いて駆け寄り抱きつくように、わたしたちもイエス様に「わたしの主よ、わたしの神よ」と何もかも忘れて懐に飛び込んでもいいのだ。