司祭 バルナバ 小林 聡
イエス様とのお約束【マタイ28:1〜10】
この3月、保育園のあるお友だちとお約束をしました。ある年長さんのお友だちが私の所に来て「今度一緒にお昼ご飯を食べてください」と言ってくれたのです。私は「はい」と答え、日程を決めました。ところがある大事なことが起こり、その日がだめになりました。そしてなんとか別の日を見つけることが出来、うれしいことにそのお友だちと一緒にお昼ご飯を食べることが出来ました。神様ありがとうと感謝しつつ、そのお友だちはこの春卒園していきました。お友だちとのお約束は、どれほど大事なものか、私はお友だちとお約束をする時、少し決断がいります。お約束を破ってしまったらどうしようと思うからです。
このことについて思い巡らす時ある事件を思い出しました。それは携帯電話を失くした時のことです。失意の中である人にそれをボヤいた時、「大丈夫、きっと見つかります。見つかった時の嬉しさを思って今は待つ時ですね」とその人に言われたのです。そして失くしてから3日後に見つかったのです。根拠のない確信、見つかるという信念は一体どこから来るのかと思いましたが、正直私にはい大いなる慰めとなりました。
そのことを幼稚園の保護者会で話したところ、つい先日ある保護者の方が「実は私も携帯を失くし、もうだめかと思っていたのですが、息子がチャプレン先生が言われていたことと同じことを私に言うんです」とおっしゃられるのです。それは「大丈夫、きっと見つかるから」という言葉でした。諦めかけていたそうなのですが、4日目に見つかったそうなのです。このエピソードは、根拠の無い確信や根拠の無い自信というものがどれほど人を励まし、生きる力を与えてくれるかを教えてくれます。大丈夫、きっと見つかるという言葉は、単に見つかることを確信しているというよりも、今失くし物をして落ち込んでいる人を励ましたい、力づけたいとの思いからの言葉であったと思うのです。そしてそれは根拠の無い確信となり、きっと見つかるという約束になったのだと思います。この約束の言葉に根拠はありません。確証もなく、単に人を思う気持ちがあるだけです。
今日、復活日に心に留めたいことは、復活とはイエス様のお約束であったということです。排斥されて殺され、3日目によみがえる。そう、あのガリラヤで会えるという生前からの弟子たちへの約束です。人は、この約束によって生きることが出来るのではないでしょうか。この約束をイエス様は必死で、何が何でも守ろうとしてくださるに違いありません。事実この約束によって弟子たちは生まれ変わり、神さまの永遠の命を生きる者となっていたのでした。
私たちは小さな頃からこの大切なお約束を通して、信頼を学び、愛情を育み、生きる意味を知ってきたのです。たとえ何度も裏切り裏切られたとしても、大切な人とのお約束が守られた経験は、その人を生かし、支えるのです。
私たちはイエス様と約束を交わし、その約束が果たされるという確信をもって生きています。それはもうイエス様の復活の命を生きていることに他なりません。
イエス様は必ず復活して私のもとに来てくださる。この確信こそ復活であり、イエス様とのお約束なのです。約束は時に疑い、時に諦め、時に忘れてしまうことでしょう。それでもイエス様はお忘れにならず、私たちとの約束を果たしてくださるのです。
イエス様は約束されます。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と。
約束は根拠のない信頼であり、だからこそ人を生かす復活の命なのです。復活の主イエス・キリストがいつも守り導き、私たちを祝福してくださいますように。復活日イースターおめでとうございます。復活の主イエス・キリストがどんな時も共にいてくださいます。アーメン。