司祭 サムエル 小林宏治
イースターの一週間前の主日を復活前主日と呼びます。この日からの一週間を聖週といい、聖公会の教会では大斎節の中でも特に大切にされる一週間です。この聖週の最初の日が復活前主日で、棕櫚の主日とも言われます。
この日の福音書(マタイによる福音書27:1−54)は受難の物語が読まれます。イエス様の受難の頂点は、その死にあるように思います。イエス様は十字架にかけられ、その死を迎えられました。イエス様の苦しみは、途方もないものだと思います。十字架上での死を前にした苦しみもさることながら、十字架に至る道もまた苦しみだったのではないでしょうか。
今回は、福音書の中から、イエス様が言われた言葉に注目したいと思います。それは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉です。マタイによる福音書では、イエス様が死を迎える前のはっきりとした最後の言葉です。うめきの叫びはその後にもありますが。
わたしたちは苦しむことは嫌いです。苦しみを引き受けたいとは考えません。むしろ、避けたいと思います。しかし、人は突然にそのことを引き受けなければならない時があります。また苦しみに耐えなければならない時もあります。絶望を感じるときもあります。そのとき、人は何を頼りに生きようとするのでしょうか。
キリスト教を信じる中で、わたしたちが大切にすることは、神様です。神様のやさしさが人に生をもたらせると思います。わたしたちをみ守り、支えておられると信じることで生きることができるのです。
上記のイエス様の言葉は、見方によれば、イエス様にとって、神様がご自分を見捨てたのかという問いとして聞こえてきます。希望が失われると、だれも自分を守ってくれないと思ってしまいます。けれども、イエス様の言葉は、絶望を表現したものではないと思います。この言葉は、詩編22編の冒頭の言葉であると言われます。この詩編では、神様に見捨てられたと思うような状況にある信仰者が、その苦しみの中で、なお神様に信頼の祈りをささげる様子が示されています。
神様はすぐにわたしたちの希望をかなえてはくださらないと思います。また、わたしたちが思う希望や、解決ではないかもしれません。全く神の沈黙が続くように感じるかもしれません。けれども、神様はわたしたちを見捨てられません。神様に信頼を置く者にとって、神様の愛は絶対です。どのような状況であろうが、わたしたちを愛しぬいてくださるのです。イエス様はその苦難と死を通して、神様の愛の業をわたしたちに示してくださったのです。