司祭 パウロ 北山和民
大斎節もあと2週間。来主日は復活前で長い福音(イエス様の受難)を聞く日曜日です。本主日はそのイエスの復活の先取りの物語を聞く日曜日。
ヨハネ福音書11章35節は、現在の聖書で「最も短い節」です。すなわち「イエスは涙を流された」
「最近おまえは共感の涙を流したことあるか?」と問われたように感じました。つまり、福音書が先々週から、イエスとサマリアの女、生まれつきの盲人との「やりとり、対話、カウンセリング」に招くように、復活について考えたり、教えたりするより、その経験に寄り添う(対話的)態度こそ最も大事なことなのだとわたしは気づかされたのです。みなさんはどう聞くでしょうか?神はこの聖餐式、イエス様の贖いのドラマによって「復活」をわかったかのように生きているわたしたちに「死者との対話と共感」へ、二度とない経験へと招いているのです。
しかし、信徒の多くは、この私も、日常の仕事に忙しく、礼拝は「心と体のリゾート程度」で繰り返す聖餐式に慣れてしまっているのではないでしょうか。「復活の死者」が今ここにまざまざと私を取り囲んでいる聖餐式の厳粛さと、マリア、マルタの家族の経験に共感し心震えることを忘れて礼拝を続けているのではないでしょうか。
援助者がクライエントと会う時、まず、今、この時はいかに新しい時なのか。今何が起こっているのか?を気づいてなければならない。
本日の「ラザロの復活」の福音書を聞くことは、自分の死を忘れ、共感する感性の鈍ったわたしたちを清めるためなのだと感謝しましょう。
今週の特祷に心を潜めましょう。
…どうかご自身を神にささげたキリストの血によって、わたしたちの良心を死に至る行いから清め、あなたに仕えさせてください。イエスキリストによってお願いいたします。アーメン
(大斎節第5主日特祷より)
以上