司祭 サムエル 門脇光禅
「目の不自由な人への光」【ヨハネによる福音書9章から】
イエスさまが道を通っておられるとき、生まれつきの目の不自由な人を見られた。
生まれつきとは回復の見込みがない目の不自由さから言えば重症といえます。
「イエスがご覧になった」と聖書にはしばしば出てきます。私たちがイエスさまを見る前に実はイエスさまは私たちをご覧になってくれているといえます。
この場合もイエスさまが目の不自由なものをご覧になって大きな出来事がおきてきます。イエスさまが この人を見たというところから話がはじまります。
ですから私たちもイエスさまに見つめられ、選ばれていることは大きな出来事と言えるかもしれません。
「どうせ自分はこれだけの知恵や力しかない」と人はあきらめやすいものです。
でも、キリスト者はもっと神さまの愛ゆえの大きな可能性の中にいるはずです。
イエスさまが目の不自由な人をご覧になっているので弟子たちが言いました。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」当時は、病気や身体的不自由や経済的困窮は神の罰と考えられていました。このことはユダヤに限ったことではありません。私たちも病気や体の不自由、経済的困窮がつい因果応報的価値観に左右されがちです。
そこにイエスさまは新しい世界を展開されたのです。
「貧しい人は幸い」「泣いている人は幸い」貧しい人が幸いであるはずがありません。
イエスさまがそう言われたのは、私たちが不幸だと思うことに新しい解釈を創造されたのです。
イエスさまが来られたことによって私たちが不幸としか思えなかったことが希望の光を放つようになったということなのです。
目の見えないという厳しい現実が実は、神さまの栄光を現すというような人生になっていくということなのです。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」と言われ目を開かれたのです。
イエスさまが来られたことによってその目の見えない人は神さまの栄光を現す場となったわけです。「幼い頃、両親がちゃんと栄養と薬を与えないから」と言う風に原因があって結果があるという一面だけしか見ない因果応報的解釈ではこのみ言葉は理解できません。もちろん病気になることは決して楽しいことではありません。
聖書は艱難や苦しみの中にある人に対して、「病気や苦難は神さまの栄光の場となるのだから決して希望のない世界ではありませんよ」ということを示しているのです。
イエスさまは土をこねてその人の目にお塗りになりました。そして、「シロアム『遣わされた者』という意味の池に行って洗いなさい」と言われました。「そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」と簡単に書いてあります。
でも簡単なことではないと思うのです。神さまの約束を信じそれを実行して見えるようになったのです。
「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」とあります。実にこの言葉に尽きると思います。
イエスさまによって私はこうされましたと言うものをもって無ければ他のことをいくら知っていても無駄のように思います。
教会の弱さや伝道不振を嘆くよりも1つのことを知るということ神さまが自分に何をしてくれたかを知ることが本当に大切と思うのです。