司祭 ヤコブ 岩田光正
「決して渇くことのない命の水」
サマリア人は、善きサマリア人の譬えでお馴染みですが、ユダヤの北、サマリア地方に住む人々を指します。元々同じイスラエル王国としてユダヤ人と同胞でありながら、その後、敵対して南北に分裂、特に北イスラエル滅亡後は異民族との混血が進んだため、ユダヤ人から異邦人として軽蔑されていました。
イエス様はガリラヤへの途中、このサマリアに立ち寄られますが、今週の福音の物語はここから始まります。
正午の頃、旅に疲れたイエス様がヤコブの井戸のそばに座っています。ヤコブの井戸のヤコブは、イスラエル民族の父、ヤコブに由来する井戸としてサマリア人の誇りであり、また命の糧の水を汲む場所として大切にされていた井戸です。そこにある一人の女性が水を汲みにやってきます。そして、イエス様がその女性に「水を飲ませてください」と声をかけます。そこから二人の会話が始まります。最初、女性は当惑して、何故?と質問します。というのもサマリア人と交際しないユダヤ人が水を求めてきたからです。イエス様は答えます。あなたが神の賜物、つまり、あなたが生きた水とは、永遠の命に至るための水であり、また水を飲ませてくださいと言った者が救い主であることを知っていたら、逆にあなたから私に頼み、私はあなたに生きた水を与えたことであろう・・・イエス様はこうしてご自分の真実を明らかにされます。勿論、女性は、何のことか理解できません。井戸から汲んで、渇きを癒す水とイエス様の言われる生きた水を区別できないからです。今度は、女が皮肉を交えて質問します。「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか?」イエス様は答えます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
このイエス様の言葉に、女性はどう答えたでしょう。今度も決して理解できたのではありません、しかし、心が大きく惹かれていきます。そして言います。「主よ、渇くことがないように、またここにくみにこなくてもいいように、その水をください。」実はこの言葉、いまこの女性が抱えている重い現実の中、心の奥底からの叫びであり、また願望であったのです。当時の社会にあって、彼女は村内で白眼視されていたかもしれません。あるいは、彼女自身が周囲と距離を置いて生活してかもしれません。ここで、私たちははっきりと気付きます。亜熱帯のパレスチナでは、人々は、早朝か日が陰ってから活動して熱い日中は昼寝をして過ごすのが普通だそうです。なのに、彼女は敢えて一人、正午の一番厳しい時間に水を汲みに来ていた、それは、彼女は人目を避けていたのです。
彼女の口から思わず出た言葉「渇くことがないように、またここにくみにこなくていいように」、彼女の心は渇き求めていたのです。救いの水を。そして、厳しい真昼の炎天下での水汲みという重い労働から解放されたかったのです。
イエス様と出会い、そして会話を交わす中で彼女はきっと、心に命の水が湧き出すような癒しを覚えたことでしょう。一体何が彼女の心をそのように癒しへと導いていったのでしょう。
ところで、イエス様は彼女に「あなたに命の水をあげよう」などとは仰っていません。むしろ、イエス様から彼女に「水を飲ませて下さい」と言っています。私はここにイエス様の教える神様の愛とは一体どのようなものかを示されているように思います。隣人の全存在を尊重し、最後まで寄り添おうとされる愛の姿・・・だからイエス様は敢えてご自分を低くされて、渇いている者、憐れみを受けなければならない者となったのです。それは、この女性がこれまで幾度もつまずき、社会の中で罪深い女としての負い目を負い、人に対する愛を見失いかけていたからです。彼女は、もはや自分が真に人から愛されるとは考えられなかった、愛を信じることさえできない存在になっていたかもしれません。しかし、ここでイエス様から「水を飲ませてください」と声を掛けられた・・・そのことで、彼女はふと久しく忘れていたことに気付いたのではないでしょうか?自分もその存在が認められ、他者に愛を与えることができる存在として大切にされているということを・・・長年、彼女は裏切られたり、騙されたり、捨てられたのではないでしょうか、その上、社会的な立場では罪人とされてきました、このような他者との関わりの中で生きてきた彼女が、今自分を必要としている隣人のいることを知った、そして新しく立ち帰る機会が与えられたのです。再び他者を愛する機会を与える・・・こうしてイエス様は彼女を導き、永遠の命に至る水を与えようとされたのです。
さて、この後すぐ彼女は大事な水がめを置き去り、イエス様のことを町の人たちに「メシアかもしれません」と証言しています。これはある意味、信仰の告白と言えます。
この後、最後、イエス様は、ご自分を十字架にささげられ、御子であるにも関わらず最も低い所、しかもこれ以上ない苦しみの中に死んでくださいました。それは、罪を負って生なければならない私たちに決して渇くことのない、永遠の命に至る水をお与えになるためでした。この時、サマリアの女性は、目の前のイエス様が後に十字架にかけられ、その後ご復活されることで真のメシアであることが明らかにされることなど思いも及びませんでした。しかし、この事実だけは明らかです。彼女は、イエス様と出会うことで公然とイエス様を賛美できる様に、これまでの自分から新しく生まれ変わることができたことです。