司祭 セオドラ 池本則子
人は変えられていく
まもなく大斎節に入ります。大斎節前の日曜日には毎年、イエス様がペトロ・ヤコブ・ヨハネだけを連れて山に登り、そこで姿が変わったという「イエス変容」の出来事が読まれます。『顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった』。これがイエス様の変わった姿でした。この光り輝く姿を見せたイエス様はこの後、十字架への受難の道へと進んでいくことになります。十字架に至るイエス様の受難の道。そこには逮捕され、鞭打たれ、あざけられ、血を流すというみじめでみすぼらしい姿があります。その姿は、山の上での光り輝く姿とは全く正反対の姿です。光り輝く姿とみすぼらしくみじめな姿。しかし、この対照的なイエス様の姿は私たちの救いに必要な姿でした。
『神よ、あなたはその独り子の受難の前に、聖なる山の上でみ子の栄光を現されました』。大斎節前主日の特祷です。イエス様の山の上での光り輝く姿は父なる神様によって変えられた栄光の姿でした。そしてこの光り輝く栄光の姿は、十字架という受難のみすぼらしくみじめな姿に変えられていきます。しかしそこで終わるのではなく、復活というさらに光り輝く姿に変えられていきます。十字架も復活もまた、父なる神様によって変えられていく栄光の姿なのです。
神様によって変えられる栄光の姿。『どうか、わたしたちが、信仰によってみ顔の光をあおぎ見、自分の十字架を負う力を強められ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられますように』。私たちも神様によってイエス様と同じ栄光の姿に変えられるようにと特祷で祈ります。
「神様によって変えられる」。私たちは社会生活を送る上で人間関係に悩むことが多いと思います。そんな時、なかなか良い関係が築けない相手に「変わってくれればいいのに」と相手が変わることを期待したりします。しかし、そんな時には相手が変わることを求めるのではなく、自分を変えようとすることが大事なのではないかと思います。とは言っても、自分を変えるということはなかなか難しく勇気のいることです。もしかしたらそれは、自分の負う十字架ということであり、イエス様の受難の道と重なることなのかもしれません。「自分の十字架を負う力を強められ」と特祷で祈りました。自分の力で強めることはできなくても神様が強めてくださるのです。イエス様が父なる神様によって栄光の姿に変えられていったように、私たちもまた神様によって変えられていくのです。自分が変わろうとする時、神様が変えてくださるのです。そしてもし、自分が変えられていったのなら、相手も変えられていくのではないかと思います。その時きっと、前より良い関係を築いていくことができるようになるのではないでしょうか。
それは人間関係だけではありません。私たちの人生には光り輝く時もあれば受難の時もあります。しかし、イエス様と共に歩む時、栄光から栄光へと変えられた神様が、私たちの歩みをも栄光ある姿に変えてくださることを信じ、希望を持って過ごしていきたいと思います。