司祭 ヨハネ 井田 泉
落ち穂を受ける者【レビ19:9−10】
「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない。わたしはあなたたちの神、主である。」(レビ19:9−10)
このような掟が、旧約聖書の中にある、ということを、今日私たちはあらためて知らされました。
ここには、貧しい者、寄留の人々が受けるべきものが、具体的に定められています。しかもそれは、親切な人の好意を期待するというのではなく、また「できれば、なるべくそうした方が望ましい」という程度の勧めではありません。「わたしはあなたたちの神、主である」という、断固たる宣言がこの戒めには伴っています。これを彼らのものとして確保する、これを彼らが受けるのでなければならない、これは私が命じるのだ、という、主なる神ご自身の強い命令なのです。それを聞いて行うのが、主の民イスラエルである、ということです。
今、麦畑が前に広がっているのを想像してみましょう。収穫の時です。収穫の後にではなく、収穫の前に神様がこう言われます。
「畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない」。
全部を刈り尽くすのではない。まず、刈り残す麦を確保しなさい。落ち穂も拾わずにそのままにしなさい。もし余ったらというのではなくて、あらかじめそれらを別に確保しなさい。それらは貧しい人たちのもの、寄留の人々のものだ、と言われるのです。
私たちはこういうことを聞いているでしょうか。収穫の初穂、収穫の最初のものは神のものとして神に献げる。これが献げるということだ、と。余ったものを最後に献げるというのであれば、ほんとうの献げものではありません。そのように、主への献げものを最初に確保するのと同じように、貧しい人と寄留者の受ける分を、収穫のとき、最初に確保する。それほど大切なこととして、この掟があるのではないでしょうか。
収穫の作業が終った麦畑には、生活の困難を抱えている人々、同様の状態にある寄留の外国人が入ることができます。刈り残されている麦を摘みます。落ち穂を拾います。気兼ねする必要はありません。一方の人たちが「さあ、あなたがたを援助してあげましょう」とわざわざ言うこともないし、もう一方の人たちが「自分たちは援助してもらっているのだ」と強く意識したり心に負担を感じたりすることもありません。彼らのものとして用意されているものを彼らが得るのですから、自然なことです。
ところで、新約聖書にはこういう場面があったのを思い出します。イエスと弟子たちが麦畑を通られた。すると、弟子たちが麦の穂を摘んで食べ始めた。(マタイ12:1)。よっぽど空腹だったのでしょう。イエスもまた、弟子たちの摘んだ麦を一緒に食べられたのではないでしょうか。主イエスは、貧しい者や寄留者と同じ境遇の一人となられたのです。
ところで申命記にはこうも言われています。
「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される」(24:19)。
寄留者、孤児、寡婦、これらの人々、弱い立場に置かれた人たちが当然受けるべきものを確保することができるように、手を動かし、心を動かす。それは、主の祝福を受けることであると言われます。
「こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される」。
これは冷たい律法なのではありません。私たちを祝福しようとしておられる主の招きがここにあります。どうか私たちも主イエスにつながってそのように歩み、祝福に共にあずかるものとなりたいと願います。