2017年2月12日      顕現後第6主日(A年)

 

司祭 マタイ 古本靖久

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。(マタイによる福音書5章21節)

 「腹を立ててはならない」、新共同訳聖書の今日の箇所を開いてみると、このような小見出しがつけられています。そのように書かれると、イエス様はわたしたちに道徳を教えているように感じるかもしれません。しかしわたしたちは「腹を立てる」ことなく生きていくことなど、本当にできるのでしょうか。

 イエス様の時代にいたファリサイ派や律法学者たちは、罪から身を遠ざけようとしました。罪という沼地があったとすると、彼らはそこに絶対に近づこうとはしなかったわけです。だから罪を犯した人がいたとしても、手を差し伸べませんでした。「自分の力でその沼地から出て来なさい。そして泥をきれいに洗い流したら関わってもいいよ」、それが彼らの考えでした。

 彼らファリサイ派や律法学者たちは、正しい者と呼ばれていました。そして彼らはいつも怒っていました。神さまに背き、罪を犯し続ける人々に対して、怒りをぶつけていました。自分こそが正しいと思ったときに、周りの人を侮辱し、否定し、「愚か者」と言う。でもわたしたちも、同じようなことをしてしまうことはないでしょうか。

 イエス様は、律法や預言者を廃止するためではなく、完成するために来られました。それはわたしたちに新しい倫理観を教えるためではありません。外見だけでなく内面まで裁かれる神さまの前では、わたしたちは誰一人として罪から逃れることはないと言われているのです。

 わたしたちは罪の沼地に、どっぷりと浸かっています。身動きが取れないほど、その泥は、深く、重く、体にのし掛かってきます。泳ぐどころか、前に進むことすらできない、それがわたしたちの状態です。

 それではわたしたちは、その泥沼の中でただ沈んでいくしかないのでしょうか。

 神さまはそれを良しとはされませんでした。神さまの独り子であるイエス様を、わたしたちの間に遣わされたのです。

 イエス様はその泥沼に、舟を出されました。岸辺から「お〜い」と声を掛けられるのではないのです。自ら舟に乗り込み、わたしたちの間に来てくださる。そしてどうされるのか。手を差し出すのか。違うんですね。ご自分も泥沼の中に身を委ね、わたしたちを抱え上げ、舟に押し上げてくださる。それがイエス様なのです。

 わたしたちは、腹を立てることなく生きることなど不可能です。自分の力だけで、罪の沼地から出てくることなど出来ないのです。しかしそんなわたしたちのために、イエス様は来てくださいました。そして「この舟に乗りなさい」と罪深いわたしたちを導いてくださる。福音という名のその舟に。