司祭 エレナ 古本みさ
『何のために生きる?』【マタイによる福音書5章13−20節】
わたしたち命あるものは時が来たら必ず死んでしまうのに、何のために生きているのだろうか。意味があるのだろうか。思春期になるとだれしも一度はこんなことに思いを巡らし、眠れぬ夜を過ごすことがあるのでないでしょうか。
イエス様は、ある日、ご自分に従う人々を山の上へ連れて行かれました。山の上、それは神様によって創られたこの世界の大きさ、そして自分のちっぽけさに気づかされる場所です。そこで人々に語られたのです。「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と。イエス様がそこで伝えたかったのは、わたしたちは「地」ではなく、その「塩」であるということ、また「世」ではなく、その「光」であるということでした。
塩はわたしたちの食卓に欠かせないものです。でもそれ自体は食べ物ではなく、食材の持つ旨みを最高に引き出すための調味料でしかありません。さんまに塩が振られてなければわたしたちはとても残念な気持ちになりますし、スイカに塩を少々振りかけるとその甘味が引き出されとっても美味しくなります。反対に塩の量が多すぎるとせっかくのお料理はどんなものであれ台無しになってしまいます。
光は世を照らすためのものです。太陽が規則的に地球を照らしてくれることでわたしたちは生きていくことができます。でも、宇宙の片隅で一生懸命ひとりで輝いている星があったとしても、その光が何を照らすこともなく、独りよがりの光であるならば、意味がないのです。
わたしたちの生きる目的、それは神様が最高傑作としてお創りなったこの世界というご馳走がもっともっと美味しくなるためにお手伝いをするということ、そしてそこに自分に与えられた光を輝かし続けることです。わたしたちはともすれば、人間こそが「地」であり「世」であると思い込んでしまいがちですが、それは悲しい勘違いです。わたしたちが塩気のある塩として、この世界を照らす光としてあり続けるために、いつもイエス様がともにいてくださいます。ハレルヤ!